「科学」と「虚無化」

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)の続き。「瓶」の話は続く。


物理学が私たちに確言するところによれば、瓶の中は、空気および空気を構成する全構成要素で充満しています。だとすれば、納めるはたらきをする瓶の部分を規定するための根拠として、瓶の空洞を引き合いに出したとき*2、私たちは、詩人気どりの考察をひけらかしてみずからを欺いていただけだった、ということになりかねません。
とはいえ、現実の瓶をその現実性に着目してつとめて科学的に探究すべく試みるや、ただちにもう一つ別の事態がおのずと現われてきます。ワインを瓶の中に注ぐ場合、それまで瓶を満たしていた空気が、たんに押しのけられるだけであり、その代わり今度は、一定の液体が瓶を満たすのです。瓶を満たすとは、科学的に見れば、ある中身を別の中身に交換することなのです。
このような物理学的記述は、もちろん正しいのです。科学はこうした記述によって、現実的なものを表象して立てるのであり、しかも、この現実的なものに科学は客観的に準拠します。科学が関わっている相手とは、科学なりの表象して立てる仕方によって科学向きの可能的対象としてあらかじめ容認された当のものでしかないのです。(pp.254-26)
「科学的知識」の「強制力」及びそれが行う「虚無化」について;

科学的知識は強制力をもつ、と言われます。(略)科学知が強制力をもつゆえんは(略)目下の場合(略)ワインで満たされた瓶そのものを見捨てよ、そしてそれに代えて、液体が広がりうるような不定の空虚な空間を置き換えよ、とする強制に存するのです。科学は瓶という物を虚無的な何かに変えてしまいます。科学が物を、決定的尺度を与える現実的なものとして容認しないかぎりはそうです。
科学的知識は、その領域つまり対象の領域において強制力をもっていますが、物を物としてはとっくに虚無化してしまっています。これは、原子爆弾が爆発した時点よりもずっと前からそうなのです。原子爆弾の爆発とは、物が虚無化されるという事態がとっくの昔から生起してしまっていることを確証するあらゆる粗暴な証拠のうちの、最も粗暴な証拠でしかありません。この場合、物の虚無化とは、物が物としては虚無的なままにとどまる、という意味です。物の物性はあくまで隠され、忘れられたままです。物の本質は決して前面には現われません。すなわち、言葉にもたらされません。このことを、物が物としては虚無化されている、という言い方は意味しているのです。虚無化がかくも無気味であるのは、それが、次のような二重の意味での思い上がりを伴っているからです。第一にそれは、科学とは、残余のすべての経験に先立って、現実的なものをその現実性においてずばり言い当てるものなのだ、とする思い込みです。そして第二に、そうはいっても現実的なものを対象とする科学的探究とはおよそ無関係に、物はあくまで物でありうるのだ、といった見せかけです。(略)もし物が物としてその物性においてこれまでずっとおのれを現わしていたとすれば、物の物性はとっくに明らかになっていたことでしょう。物性は思索されることを要求してきたことでしょう。(略)しかしじっさいには、物は物としてはあくまで阻止され、虚無的にとどまり、そのような意味においてまさしく虚無化されたままなのです。こうした事態がすでに生起しているのであり、しかも、それが本質的に生起しているはなはだしさたるや、物がもはや物としては容認されていないばかりか、物がそもそも物として思索に現われるということがこれまで一度もありえなかったほどです。(pp.26-27)
この一節を理解するためには、やはりフッサールの『危機』書*3を参照すべきなのだろう。