〈知〉というコミュニティへ

日本教原子力問題」http://d.hatena.ne.jp/essa/20110718/p1


このエントリーは、最近私が原発問題に関して叩いた無駄口でいうと、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110501/1304191495 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110503/1304392248 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110601/1306902243 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110626/1309027815とかに関連するか。山本七平阿部謹也河合隼雄岸田秀井沢元彦といった名前が挙げられているけれど、この手の〈日本人論〉*1(「日本教問題」)というのは文化本質主義*2! の一言で片付けてもいいかも知れない。勿論、他の諸社会とは区別される日本社会独特の〈心の習慣(habits of heart)〉が存在することを否定するわけではない。批判されなければならないのは、その〈心の習慣(habits of heart)〉の歴史的形成(構成)を検証するという努力をしないで、比較文化論的な努力をしないで、いきなりこれが比類なき日本の本質だ! とつきつける知的怠慢である*3。「空気」を読む能力というのは社会性の基礎に属するわけで*4、ここで言われている「共同体的価値」への同調を「科学的真理」への服従よりも優先させたために悲惨な結果を招いたなんてことは、日本のみならず米国だろうがイランだろうが中国だろうが北朝鮮だろうがイスラエルだろうが、どこにだって事例が転がっている筈だ。それから、解釈学や現象学以降という哲学史的地平を踏まえれば、(「人間」が「個人として直接つながることができる」とされる)「科学的真理」vs. 「共同体的価値」という二項対立を素朴に受け入れることはできないだろう*5。実際、「真理」が探究され、吟味され、さらには尊重されるということが行われているのは、或いはそうしたことが可能になるのは、或る種の「共同体」においてなのだ。〈学〉(或いは〈知〉)という共同体。勿論、〈学〉という共同体は大学組織とかなんちゃら学会とかと、況してや〈原子力村〉なんかと一致するものではない。それは(それ自体としては)実体的な組織を持たない不定形な「共同体」であり、(open to allという意味で)殆ど公共性に近い開放性を有する*6
ということで、まだ20代だった高橋哲哉*7が書いた論文「歴史における相互主観性――フッサール後期思想の一側面――」(新田義弘、宇野昌人編『他者の現象学』、pp.275-303)から少し抜書き;


ところで、我々はここで以下の点に注目せねばならない。まず第一に、すべての顕在的意識が内含している普遍的な地平意識に属するものとして、「過去」と「未来」との「開かれた無限の地平」の意識が存在する、という点である。過去の内容は想起によって、また未来の内容は予期によって解明されるが、それらは一切の解明に先立って漠然と意識され、つねにすでに生きられている地平なのである。そして、この過去地平に沈澱した過去の内容は、経験対象の「既知性」の前提をなす点で重要である。我我は或る対象を初めて経験する際にも、それを主題的に規定する以前に、あるいは事物として、あるいは動物として、等々、漠然とした「先行的解釈」の中で捉えてしまっており、まただからこそ地平の「予め描く」機能が成立するのであるが、そうした先行的解釈が可能なのも、「根源的創設Urstitung」の作用に由来する対象的意味とその与えられ方とが「習性的妥当」となり、それが過去地平の中に沈澱しつつ機能していて、経験に際して意識の連合を惹き起こすからに他ならない。言いかえれば、いま志向性の活動領野を描いている諸地平は、自我の過去地平の中から、つまりは歴史の地平の中から働きかけてくる歴史的地平に他ならないのである。そればかりではない。(略)そうした諸々の歴史的地平の多くはその意味上「他者の超越論的生」を前提とするものであり、したがって、根源的創設に際して「私」と他者との志向的協働があったことを指示する相互主観的地平でもある。(略)「私」の志向的生は、そのような相互主観的―歴史的諸地平を内含しつつ営まれているのであり、したがって、「私」の世界経験にはそのつどすでに、現実的および可能的な歴史的他者が共に参加していることになるのである。(pp.283-284)

(前略)哲学の理念は、前もって与えられたままで「私」の省察に規則を与え、その地平を形成してしまっている。それが真正の理念であるのか、意味のずれやおおいを蒙った仮象にすぎないのかは吟味されないまま、自明のものとして与えられてしまっている。他者が機能しているのは、他でもなくこの受動的な前所与性(Vorgegebenheit)においてであり、「根源的創設の意味の中に吟味されずに受け容れられ、またその後蓄えられたすべての意味の遺産」を遺した者としてである。相互主観性は、すでにこの段階でアノニムに機能している。それは真正さの未決定な理念を課して「私」の省察を制約し、時には事象そのものへの道を閉ざしさえするものとして、つねにすでに機能しているのである。その意味では、他者は「私」を包むものであり、「私」は他者へと引き渡されている、とも言えるであろう。(p.293)

(前略)哲学の歴史、とりわけ近代哲学の歴史が、たえず客観主義によってその実現を阻止されながらも、一貫して超越論的に基礎づけられた厳密な普遍学を狙っていたと解釈されるならば、超越論的―歴史的相互主観性である「哲学者共同体」に対応して、その相関者である「我々すべてに共通な唯一の目標としての哲学そのもの」がまさに構成されたと言わねばならない。真正の哲学理念の構成は、本質的に歴史的―相互主観的構成である。哲学の名のもとに理解されるべき真の課題は、現在の哲学者の私的な自明性の中ですでに構成されているのではなく、現在の哲学者の歴史的省察が始まり、それが現在の哲学者と過去の哲学者との協働作業として遂行され、その結果、根源的創設と究極的創設との間に一つの地平が形成されることによって初めて構成される。現在の哲学者である「私」と過去の哲学者である他者とは、この一つの地平において志向的に協働し、唯一の哲学理念を担うのである。この場合、相互主観性の成員である「私」と他者とは等しく根源的である。哲学の理念を創設し継承してきた歴史的他者がいなければ、「私」がいま担うべきものが存在しない。他方、「私」がいまそれを担わなければ、哲学の理念は忘却され危機に陥るかもしれない。現にフッサールの前には、「ヨーロッパ諸学の危機」、そして「ヨーロッパ的人間性の危機」が現れたのである。フッサールが哲学者の実践を導くべき倫理として「責任」ということを繰り返し述べたのも、一つにはそのためであった。哲学者は、歴史的―相互主観に同一な真正の課題を明らかにすること、およびその課題の究極的建設を遂行していくことに対して、自ら責任を負わねばならないのである。
存在と時間』のハイデガーは、「本来的歴史性は歴史を可能なものの”回帰”として理解する」と洞察した*8フッサールにとって歴史の可能なものとは、哲学的学問とそれに基づく自律的生の理念に他ならなかった。この可能なもの――理性の理念――が回帰する歴史、それが目的論的歴史であろう。目的論的理念は、かつて他者によって打ち立てられたものであるが、いまそれを回帰させるのは、他の何者でもない「私」自身である。「私」はこの可能なものを回帰させる実践において、かつて存在した他者と一つの地平に立つ。否、そればかりではない。「私」のこの実践は、未来の可能的他者へと向けて可能なものの回帰する地平を拓くことにも繋がるであろう。こうして、「哲学する自我」は、自らが「その必証的な対自存在において、協働する諸主観とおよそ可能なすべての協働する哲学者を内含する自我」であり、「絶対的な相互主観性」の一員であることを自覚するに至る。『危機』のフッサールは、このようにして「私」と他者との歴史的―相互主観的協働を確認していたのである。(pp.298-299)
他者の現象学―哲学と精神医学からのアプローチ (1982年)

他者の現象学―哲学と精神医学からのアプローチ (1982年)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050808 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070202/1170400703 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071012/1192195684 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090809/1249843216 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101106/1289015746 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110204/1296794711

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050820 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060131/1138687874 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070621/1182404937 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070708/1183913575 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070710/1184061034 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080112/1200165144 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080930/1222714502 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090505/1241462771 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090702/1246508928 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110214/1297694798 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110715/1310699482

*3:名前を挙げられた5人の中で、阿部謹也先生は例外だといえるだろう。

*4:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110612/1307859509 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100913/1284394468 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100212/1265948020

*5:例えば、ベラーがお弟子さんたちと書いた『心の習慣』の最終章を参照のこと。

心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ

心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ

*6:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070323/1174628115

*7:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050601 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050816 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050819 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060111/1136938920 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060203/1138994284 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060312/1142150872 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061102/1162433731 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061110/1163174018 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061113/1163434625 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070723/1185154200 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071207/1196999436 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080605/1212640212 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080616/1213635970 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081027/1225074961 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090107/1231344604 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090917/1253158517 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091213/1260736965 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100302/1267505317

*8:Zein und Zeit, 第75節、S.391(岩波文庫版、下、p.164)