ST「継承と隔たり――いかにしてデリダは/を継承するか」『コーラ』14 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-1.html
これには、広坂朋信氏の「前口上」及び広坂氏と岡田有生氏のコメントが附せられている。さらに、広坂氏は関連のエントリー「逆オリエンタリズム」*1を書いている。
ST氏の論攷に関しては、何度かbrowsingはしたもののreadingしたとはいえない(orz)。にも拘わらず、色々と考えが湧いてきた。以下は多分議論の補助線を引くつもりがたんなる余白への落書きになってしまっているのではないか、と事前に危惧しておく。
デリダのインタヴュー「パッサージュ」を引用しながら提示される「想起」としての「哲学」という主題。「やって来るもの、到来=生起するもの、明日到来=生起するもののほうを向いた記憶」。ここで気になったのは、デリダ的な「現前したことのない過去の記憶すなわち未来の記憶」というのは晩年の(『危機』)におけるフッサールの目的論とどのような関係を結ぶのかということ。最近抜書きを試みた、フッサールの『危機』における「哲学の理念」の継承の「責任」を巡る高橋哲哉氏の論攷(「歴史における相互主観性――フッサール後期思想の一側面――」[新田義弘、宇野昌人編『他者の現象学』、pp.275-303])*2。また、「伝統」の継承ということでは、ハンナ・アレントの『過去と未来の間』の「序」(“The Gap Between Past and Future”)における(カフカを批判しつつの)省察;
(…) The gap[between past and future], I suspect. is not a modern phenomenon, it is perhaps not even a historical datum but is coeval with the existence of man on earth. It may well be the region of the spirit or, rather, the path paved by thinking, this small track of non-time which the activity of thought beats within the time-space of mortal men and into which the trains of thought, of remembrance and anticipation, save whatever they touch from the ruin of historical and biographical time. This small non-time-space in the very heart of time, unlike the world and the culture into which we are born, can only be indicated, but cannot be inherited and handed down from the past; each new generation, indeed every new human being as he inserts himself between an infinite past and an infinite future, must discover and ploddingly pave it anew. (pp.12-13)
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デリダ或いは「脱構築」が「未だ西洋の内に留まっている」かどうか云々ということについては、常々そうした「批判」或いは問い自体が無意味なんじゃないかと思ってきた。というか、何よりも「脱構築」というのは(狭い意味における)理論(theory)ではなく、知的
したがって、脱構築はつねに形而上学の内で否定されるものを必要とする、あるいは形而上学が否定されることを必要とする。だがこの否定は、形而上学の中のあるものを否定した後に、あるいは形而上学を否定した後に形而上学の外を肯定的かつ現前的に語るのではなく、つまり内の否定を外の現前的肯定への条件とするのでなく、内の否定に留まり続けることで、その内に或る解消不可能なズレ(痕跡や反復可能性などで見た自己との隔たり)を見出だし、その間隙の内に、(つまり過去の記憶が来たるべきものに留まる未来の記憶となる間隙、そして未来の目的が現前されえずいつまでも想起され続けるものに留まる間隙の内に、)外の到来を約束するのであり、その歓待の待機をするのである。それは外を肯定的かつ現前的に語ることとは違う。あたかも外と内との区別が自明であるかのように、形而上学や西洋哲学の外へ出ることが可能であるかのようにデリダを批判する態度とは違う。だから私たち「日本人」が、デリダを継承するならば、デリダに対して未だ西洋の内に留まっているという批判を向けて満足することはできず(外を安易に想定することでデリダ批判者たちが尚も西洋的思考に陥る逆説と循環を先に見たから)、自分たちが日本の内にいると確信したり(例えば自己同一性)その外に出られる(例えば普遍性、範例性)と確信することはできない。そうでなく、日本の内に留まりながら、その内において自己自身との隔たりを見つけるべきなのである。
デリダにおける「継承」の問題にしても「痕跡」や「反復」の問題にせよ、(例えば)『有限責任会社、abc』でも鍵言葉のひとつとなっている「署名(signature)」への言及は避けられないのでは? 高橋哲哉『デリダ』からの抜書き;
次に引用する一節は「署名」と「継承」に関わってくるのではないか。
署名が機能するためには、つまりある名前の書きこみとして読まれうるためには、署名は明らかに模倣可能な一つのマークの反復でなければならない。それを書いた「本人」が別のとき、別のところで模倣できないような署名、「本人」とは別の人が模倣できないような署名は署名ではありえない。ある「起源」の「現在」における「本人」とは別の者、一般に他者によって模倣可能ではないような署名は、そもそもその「起源」の「現在」においてさえ署名ではありないのだ。署名のこの構造的、本質的な模倣可能性は、同時に署名の構造的、本質的な偽造可能性でもある。他者によって模倣可能でなく、偽造可能でないような署名は存在しない。このうえなく独自な署名やユニークな署名、たとえ歴史上ただ一度しかなされなかった署名でも、原理上その署名の同一性は模倣=偽造可能性としての反復可能性によって構成されるのである。そして、この模倣=偽造可能性としての反復可能性は、署名の固有性、現前性、自己同一性をその「起源」において分割してしまう。ということは、署名の単純な「起源」でもあるような純粋な「現在」は存在しないということである。
デリダがここで、またもや反復可能性の〈論理〉によって、署名という出来事の一回性のなかに〈他なるもの〉の可能性を導き入れていることは明らかだ。署名の同一性がその反復可能性にあるということは、署名はつねにそれ自身の模倣、つまり〈差異を含んだ反復〉を呼び求めるということ、「最初の」署名の同一性そのものが、それ自身の模倣、つまりもう一つの署名、他の署名、他者の署名によって確認されることなしには成立しえないということにほかならない。「他者が署名する=他なる署名=他者の署名」(L'autre signe.)とデリダがいうのもそういう意味である。これはまた、ある署名(signature)の同一性はその署名の反復、つまり連署(countersignature, contresignature)による確認なしにはありえず、したがって、すべての署名は必然的に連署を、つまり他者の署名を呼び求めるものだ、と表現することができる。(pp.163-164)
岡田有生氏のコメントではエリック・ドルフィと植草甚一が言及されている;
デリダにとって書かれたもの、テクストとは、本質的に他者のテクストであり、脱構築的読みの「対象」になる哲学や文学のテクストは、その一つ一つが他者の署名をもった特異なテクストである。プラトン、アウグスティヌス、デカルト、ルソー、カント、ヘーゲル、マルクス、フロイト、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、バタイユ、ラカン、レヴィナス……。シェークスピア、ボードレール、カフカ、ジョイス、マラルメ、アルトー、ジュネ、ジャベス、ポンジュ、ツェラン、ブランショ……。テクストは著者の固有名の署名とともに特異な出来事として生み出され、読者(であるデリダ)のもとに届けられる(略)
テクストはまず、原エクリチュールの産物として、その産出の「現場」に結びつけられたあらゆる現前性のくびきから切り離される。反復可能性なしにはテクストとならない以上、それが書かれた瞬間からすでにテクストは、たとえ著者が生きていても、著者が生きていても、著者がすでに死んでしまったかのような状況において読まれはじめる。あらゆるテクストは反復可能性の単位=マークとして、あおの言語一般のもつ「遺言的価値」をもつのであって、プラトンのテクストならばすでに二〇〇〇年以上にわたってその「遺言」解読の伝統が形成されてきたわけだ。
プラトンが署名したテクストっは、たとえプラトン自身が(略)それを望んでいなかった(?)としても、テクストとして生み出された瞬間に、とどめようもなく必然的に反復と他化の運動を開始し、他者の連署を呼び求める。ある人が死んでも名が残り、遺言状が残されて読まれるように、プラトン自身は死んでもプラトンの署名したテクストは残り、読まれることを、つまり他者の署名を呼び求める。テクストを書くことと読むことの関係は署名と連署の関係にほかならないのであって、プラトンを読むとはだから、プラトンの名の呼びかけに新たな他者の署名をもって応答すること、すなわち連署することなのである。
こう考えるなら、ある署名の同一性は連署なしには成立しえない以上、プラトンの署名は二〇〇〇年余の歴史を経てもまだ終わっていないことになる。プラトンの署名は終わっていない。いいかえれば、「プラトン」という出来事は完結しておらず、プラトンのテクストが読まれつづけるかぎり完結しえない。プラトンを読む、解釈するとは、反復可能なマーク=テクストのうえに、そのつど新たな名をもって連署することであり、その連署にまた新たな連署がつづき、……というぐあいに「無限に」つづく。新たな連署はそれ自体が署名の構造をもっているから、他者の連署を呼び求め、この新たな他者の連署もまた他者の連署を呼び求め、――反復可能なマーク=テクスト自体が抹消されてしまう(略)のでないかぎり、この連鎖には終わりがないのである。
この署名の連鎖を、なにか連続的で予定調和的な「伝統」として思い描くことはもちろんできない。署名の本質的な偽造可能性、別の言いかたをすれば、連署の本質的な反対‐署名的性格が、そこにあらゆる種類の「裏切り」の可能性を持ちこむことになるからだ。誤読、誤解、歪曲、批判、断罪、その他、ソクラテス=プラトンの欲した「正嫡」の系譜以外のすべてのもの、「父殺し」や「私生児」のあらゆる可能性がそこには開かれているのだが、それは〈差異を含んだ反復〉の可能性そのものなので、それなしにはどんな創造的解釈も可能ではなくなってしまう。どんなに「忠実」であろうとする解釈も、「裏切り」をゼロにすることはできない。裏切りがゼロであるような解釈、絶対的に忠実であるような解釈は、なにも新たなものを付け加えず、ただテクストをそのまま繰り返すだけで、そもそも解釈とはいえなくなってしまうだろう。他者のとはいえなくなってしまうだろう。他者のテクストのなにを肯定し、なにを否定するのか。なにを継承し、なにを放棄するのか。他者の呼びかけへの応答(reponse)としての解釈は、現前する主体の意識的決定の権威がもはや失われてしまったところで、それでもなおそうした決定=解釈の責任=応答可能性(responsibilite)の構造のなかに私たちを位置づける。テクストが他者の署名を呼び求めるという本質的に開かれた構造をもっているからこそ、読者は責任のうちにおかれるのである。デリダのテクストがつねに他者のテクストの読解であること、あるいは形而上学の歴史への「寄生」形態をとることも、この観点からみれば、彼の思考がいかに他者の呼びかけへの「責任」感覚に貫かれているか、を示しているともいえるのだ。(pp.165-168)
ふむ。
「音楽を聴き、終わった後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」という言葉は、64年になくなったジャズミュージシャン、エリック・ドルフィーの最後のアルバム『ラスト・デイト』に、ドルフィー自身の肉声によって収められたものである(訳はウィキペディアに拠った)。
この言葉には、形而上学の「意味」の支配に抗して戦ったデリダの思想に通じるものがあると思う。デリダはたしかに、声(フォネー)の支配に対して戦ったとされているのだから、こう述べることは逆説的に思えるだろう。だが、ドルフィーのような人が目指していたのも、自分に内在している西洋音楽の「音の現前」の支配からの解放だったのではないか(註1)。
そしてぼくが言いたいのは、植草の、一見クールで軽妙な文章の底に流れていたのも、同一的な意味や現前の支配に対する、こうした戦いの水脈だったのではないか、ということである。
意味の固定、そのことによって生を捕獲すると共に、自らは打倒を逃れ、生き延びてしまう支配的な力との戦いを、デリダもドルフィーも、そして植草も戦っていた。
植草の文章の、あの「入りやすく、読みやすく、そして捨てやすい」という感じは、この「意味との戦い」の、植草なりの形態だったのではないか。
植草甚一については谷川晃一氏が文章を書いていたのを読んだことがあって、(例によって)その書名も思い出せないのだが、切れ切れの記憶を呼び戻してみるならば、植草甚一というのは(上の言及を引き継げば)「連署」の文筆家だったということを述べていたように思う。植草に対しては、彼が文学や音楽について書いていることにはオリジナリティがなく外国の文献をコラージュしているにすぎないという批判があったらしい*3。(私の記憶によれば)谷川は植草甚一という主体性は様々な本などを自身に通過させ、引用した事後的な効果として構成されるのだと論じていたような気がする。〈書く〉ということは〈読んだから書いた〉にほかならないということはその後常識化したわけだけど(See eg. 金井美恵子『小説論』)。それから、エリック・ドルフィの言葉は色々と考えさせる。上で引いたアレントの省察に接続することもできるのでは?
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デリダが日本で行った「時間を―与える」という講演とそこでの仏文学者・中川久定*4とのやり取りが言及されている。デリダの講演は後に単行本化されたが、そちらの方は読んでいない。その前に雑誌『理想』のデリダ特集号が出て、そこに掲載された「時間を―与える」を読んだことはある。そのときにも中川久定の質問はかなりアレだなとは思ったのだが。
1983年は私が学部を卒業して入院した年。「小劇場ブーム」はその1年か2年前から起こっていたと思う。というか、私はそのくらいの頃に上で挙げられた野田秀樹、如月小春、渡辺えり子の芝居を観ていたので。また、新宿に状況劇場を観に行ったら私の真後ろに大江健三郎が座っていたというのはこの年だったっけ。「バンドブーム」の定義にもよるのだろうけど、この頃から〈インディーズ・バンド〉が擡頭してきて、雑誌『宝島』がその機関誌みたいに機能していたということはあると思う。
1983年、デリダが来日した。1983年といえば、なんだったか忘れたが、あるテレビ番組で、唐十郎と寺山修司と大島渚が同席して、唐の小説『佐川君からの手紙』を原作に、寺山が脚本を書いて大島監督で映画化しようか、などと三人で盛り上がっているのを見て、そいつはすげえやと軽薄な青年だった私は興奮したものだったが、寺山修司はその年のうちに死んでしまった。確か、五月の頃だったと思う。この年、野田秀樹、如月小春、渡辺えり子といった若い演劇人たちが世に知られるようになり、小劇場ブームが起こった。浅田彰『構造と力』、中沢新一『チベットのモーツァルト』が出てニューアカブームが起きた。正確な記憶ではないが、バンドブームもこのころだったのではないか。
世情にうとい私でも、何か浮かれたような気分になったものだ。
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*1:http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20110822/1313947741
*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110731/1312133286
*3:実際に、植草には文筆家のほかにコラージュ(貼り絵)作家という側面があったけれど。
*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091124/1259035863
*5:但し、浅田氏はここでは「京都学派を継承すると称するあるイデオローグ」とのみ言って(p.56)、大橋良介の実名は出していない。
*6:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080130/1201705768
*8:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100416/1271449256
*9:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090115/1232007402 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110118/1295373044
*10:http://en.wikipedia.org/wiki/Occidentalism
*11:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061021/1161440194 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080418/1208455455
*12:See Martin Jacques “Upping the anti” http://www.guardian.co.uk/books/2004/sep/04/society