ヴェイユはユダヤ系であるが宗教的には不可知論を奉ずる両親に育てられ、不可知論者あるいは無神論者として人生の大半をすごした。マルセイユでドミニコ会のペラン師の知遇を得てキリスト教に限りなく接近した晩年でさえ、教義上の反撥や知的な障碍を理由に頑として受洗をこばみつづけた。じっさい、ペラン師の熱心な勧めなしには、受洗の可能性すら浮上しなかった(AD*23 46)。カトリック教会もまた社会的存在である以上、集団的感情をかもしだすシステムを内包しており、信仰という名の白紙委任、すなわちある種の愛国心を成員に求める。こうした集団に特有の強力な情念にからめとられることをヴェイユは怖れた。あらゆる人間的・社会的な絆から自由でありたいと願い、いかなる集団にも帰属しないことを自分の召命だと考えていたからだ。青年期に共産党に入党しなかったのも、アナキスト系労働組合運動と一定の距離をたもちつづけたのも、いっさいの党派性をいとわしく思う、この独特の心性に由来する。むしろ心情的に親近感をいだく対象にたいしては、なおさらに慎重を期したともいえよう。好意的な先入観は自己欺瞞を容易にするからだ。
他方、ヴェイユの思索に、かげりなきデカルト的明晰性と論理的整合性を求めて、その言説からいっさいの宗教的色彩をぬぐいさることもできない。宗教的なニュアンスの払拭とともに、ヴェイユがあれほど重視した思索の多層性や建設的な矛盾もまた失われるだろう。そしてフッサール的な判断停止にふくまれる思考の宙吊りのゆたかさも、(pp.6-7)
