「超越論的」

承前*1

中国語への日本語からの語彙の進口(輸入)は現在進行中の出来事でもある。


倪梁康「試論胡塞爾現象学幾個概念的中訳問題」in 『理念人』*2、pp.176-199


哲学用語のtranszendental(英語の綴りではtranscendental)は、それがカント、シェリングフィヒテヘーゲルに関わる場合、中国語では大方「先験的」と訳されている(pp.179-180)。しかし、それが現象学フッサールハイデガーに関わる場合は、事情が異なる。曰く、


但在胡塞爾以及海徳格爾現象学哲学的中訳中、這個訳法没有得到一貫的堅持:如張慶熊、陳嘉映、靳希平等等将它訳作“超験的”、而李幼蒸先生和我在現有的胡塞爾中訳本中則沿続伝統的訳法而訳作“先験的”。当然、無論“超験”、還是“先験”的訳法、厳格地説是不太確切的。但就約定俗成*3的角度来看、“先験”的訳法則較為明確、尤其可以避免與“transzendent”(超越的)概念的混淆、因而応当優於“超験”的訳法。這是我寧可暫旦選択伝統的“先験”、而不願“超験”之訳法的主要理由。(p.180)
日本語では、transzendentalは以前は「先験的」と訳されることが多かったが、最近は(カント関係でも)「超越論的」と訳されることが多いだろう。
さて、最近完結を見たフッサール選集、八巻本『胡塞爾文集』のタイトルを見てみると*4、第六集が『欧洲科学的危機與超越論的現象学』、第四集が『形式的與超越論的邏輯学』である。後者はFormele und transzendentale Logikであろう。何時の間にか、日本語から「超越論的」が輸入されている。
実は倪梁康氏も「超越論的」の優れたところを認めている。カントにおいてtraszendentalはアプリオリという意味のほかに、経験の認識を可能にするものという、認識(意識)の超越に関わる意味があるが、「先験」という訳語ではこれを表現しきれていないが、「超越論的」はこの含意を体現している、と(p.181)。ところで、木田元先生は、『危機』の「解説」で、

筆者としても[細谷恒夫]先生の最後のお仕事に勝手に手をくわえることは、いかにもはばかられたのであるが、先生の御親友であり、筆者の恩師でもある矢島羊吉先生や畏友滝浦静雄氏にも相談申し上げたうえで、おそらく細谷先生が御自分でなさったとしてもこうなさるにちがいないと考え、思いきって手を入れることにした。たとえば先生が「先験的」という訳語を当てられたtranszendentalという基本的用語を「超越論的」と訳し変えるようなことさえもしている。これは、今日ではカント哲学に関してさえも「先験的」という訳語に疑義が生じているし、現象学関係の文献では、「超越論的」がほとんど定訳になっているからである(ことにフッサールのばあい「先験的」とすると、「先験的経験」transzendentale Erfahrungという妙な訳語をつくらなければならないばあいが出てくる)。したがって、『名著』版とはかなり姿を変えることになってしまったが、弟子のこうした相変わらずの非礼を、御生前いつもそうであったように、苦笑しながら見のがして下さるのではないかと、今となっては先生の御寛容に甘えるほかはない。(後略)(p.425)
と書いている。
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

また、カントにおける「超越論的」に関して、ドゥルーズ『カントの批判哲学』、pp.33-34を取り敢えずマークしておく。
カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090616/1245155333

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080613/1213324521

*3:習慣的なものが広く一般に認められるようになること。

*4:See倪梁康「埃徳蒙徳・胡塞爾:従歴史與現時的観点看――八巻本《 胡塞爾文集》編者引論」in 『理念人』、pp.156-160