機械を巡って幾つか

承前*1


先ず「レヴィ・ストロースを評して、女性を貨幣扱いしているとか、そんな非難も出てくるのかな」*2ということですが、レヴィ=ストロース先生のフェミニストの間での評判はこのおかげでめっちゃ悪いんじゃないでしょうか。ところで、


僕が思うに柳沢発言で問題視すべき点があるとすれば、「あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」という、精神論めいた締めの部分である。

頑張れだけなら小学生だって言える。テクノクラートとして実際的に処理する態度からはかけ離れている。

こうした態度が、市民社会という虚構的には不穏当な、機械なる言い方をしておきながら、頑張る/頑張らない(少子化は“装置”が頑張らないからだという内的断定の絶対化)という旧弊な虚構を持ち出していると思わせるのではないだろうか。

というのはその通りだと思う。というよりも、「機械」に「頑張ってもらう」というのはそもそも不条理ではある。

「機械」に自己責任は問えない。どんな結末になっても、「機械」自体は悪くない。悪いのは、設計者であり、製造者であり、誤った操作であり、停電等々だ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070130/1170130210
ということ。或いは、コンピュータの動作が鈍いときに頑張れとか叫んでも無駄だということ。
また、

あのー、「生物=機械論」で言う「機械」は普通 "automaton"(=self-operating machine) であって、決して "device"ではないですよ。女性への冒涜云々とか言うよりは、個人が国家のための交換可能な部品に過ぎないと言う、憲法にそぐわない世界観を「公僕」が堂々と申して立てることが根本的問題で、曲がりなりにもこんな発言を擁護なさるような富国強兵な感覚の方とは自分は到底お友達になれないです。
http://d.hatena.ne.jp/kyoshida/20070130
憲法にそぐわない」けれど、北の国の〈主体思想〉には適合しているのかも。それはさて措き、automatonとdeviceの区別ですけど、他方で今回の問題を独逸表現主義と結びつけている方もいる*3。機械とアートの関係はというと、イカルス神話とかに遡らなければならないということもあるかも知れない。それではあまりにも大変なので、内燃機関以降ということにすれば、何といっても伊太利の未来派野郎たちが挙げられるだろう。これは多分、崇高(sublime)と関係がある。伝統的に崇高を喚起するものとして美術の主題になってきたのは(とはいってもヨーロッパの場合、自然が美術の主題になったというのが近世以降だということはあるのだが)所謂大自然、海とか高山だった。工業の発展と共に、自然よりも更に崇高を喚起するものとして機械が発見されたということになる*4。崇高なるものとしての機械はそのforceにおいて人間力を超越している。人間業じゃない手に触ると怪我するどころか命を取られかねない危険な存在。人間機関車と呼ばれた蘇聯のスポーツ選手とか人間発電所と呼ばれたプロレスラーがいたと思うのだが。ともかくポップ・カルチャーでmachineという言葉が使われるときには、大方人間業じゃないことへの賛嘆が伴っているんじゃないかと思う。JBの”Sex Machine”にしても*5。ディープ・パープルの「国道の星(Highway Star)」でも”a killing machine”という言葉が使われている。
さて、未来派野郎たちはファシズムの起源でもある。ここで上で引いたautomatonとdevice、或いは機械(そのもの)と部品の区別がレリヴァンスを持ってくるのだと思う。人間業じゃない手に触ると怪我するどころか命を取られかねない危険な存在としての崇高なる機械。その両義性に晒されて、大いなるautomatonにその部品となることで同化すること。そうすれば、機械の脅威からは逃れられる。ファシストは国家或いは民族というものにその同化すべきautomatonを見いだしたということになる。http://mirror-ball.net/2007/01/post_95/フリッツ・ラングの『メトロポリス』が言及されているが、その同化への欲望には子宮回帰願望というマザコン的な欲望も絡んでいる*6
ところで、今回の問題は「機械」という比喩それ自体ではなく、「その場で「機械と言ってごめんなさい」と謝罪し、「産む役目の人」と訂正した」*7ことで、柳澤という人は却って馬脚を現してしまったのではないかと思われる。

少し冷静になって考えると、政策や経済やマネージメントなどといった「カタい」世界ではあらゆるモノを機械と見なして動いているのである。あらゆる物が「機能」し、「生産」するという前提で世の中を作り上げ、我々はそれにドップリと浸かっているという実情にもう一度気づこう。あらゆるモノを物や機械として世の中が動く事によって、便利になり豊かになったと我々はどこかの時点で割り切ったのではなかったのか。子供を産み育てるなどということはこういう効率重視の世の中にとって適応しづらい行為になってきたということだと思う。
http://cgkojo.com/wcg/item/150
呼びかける相手を間違えているのだといえる。或いは、組織と社会の取り違え。組織にとって、その成員(member)というのは器官(member)でしかない。しかし、個人の側から見れば、組織の成員であるというのは(原理的には)一部でしかない。政治というのは組織の成員を相手にするものではないということだ。あと、堅くならなければ子どもは作れないですけど。

産む機械というのは、女性の人格を否定した形の発言になる」という類の批判が相次いでますが、厳密に経済学上の問題として少子化問題を考えるならば、「人格を否定」したいという気持ちがあるわけではなかったとしても、どうしても人格についての言及を削った表現を使っていかないと、「問題について考える」ことすらできなくなると思います。

なぜなら、経済の問題について語るとき、どうしても人間は数として計量可能なものに還元されてしまうからです。このとき、「数」でしかないはずの人間に人格を認めることはナンセンスでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/nyaro/20070201/1170265493

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読むことを強く勧告したい。ところで、

ですが、現在は、流石に産まないよりは条件は悪くなるとはいえ、産み・育てながらの生活が可能になりつつあります。それなのに、ひたすら女性たちが「産まない」という選択肢を選び続けるのは、彼女らは「自己決定権」が大きいのに任せ、「自分がそうしたい=働きたい、それももっと有利に」ことを重視しているのです。

このような女性の強い自己主張は、たとえば「子供を持ちたい」と考える夫たちとの意見の相違を多く生じさせ、意見の相違からの離婚が増え、「バツイチ」になり、仕事に没頭し、なおさら子供を持つことから遠ざかる、という悪循環すらもたらします。

というのは離婚研究における定説なのだろうか。識者の啓蒙を俟つ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070128/1170005200

*2:http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070201/p1

*3:http://mirror-ball.net/2007/01/post_95/

*4:あと、機械は暗箱というイメージも伴っていますね。何かを入力すると、そのメカニズムはわからないのだが、変なものや凄いものが出力されてくるという。

*5:モーニング娘。の”Love Machine”は?

*6:ローリー・アンダーソンの”O Superman”だ。

*7:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070128i112.htm