「捧げるはたらき」へ

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)の続き。「科学」による「虚無化」を超えて、「瓶」の瓶らしさ」を理解するためには、「瓶」を或る種の実践的連関の中に置き直してみた方がいいという展開になるのか。
曰く、


容器の現実的に働いている部分、容器の納めるはたらきをしている部分、つまり空洞を、空気で満たされた空虚な空間として、私たちは表象して立てました。この空虚な空間が、現実的に、つまり物理学的に考えられた空洞なのです。しかし、空虚な空間は、瓶の空洞そのものではありません。私たちは瓶の空洞を、瓶ならではの空洞として、あるがままに認めてはきませんでした。容器のうち納めるはたらきをする部分に、私たちは注目しませんでした。納めるはたらき自体がどんなふうに本質を発揮しているかを、私たちは熟考しなかったのです。それゆえ、瓶が納める当の中身のほうも、いかんともしがたく私たちから逃れ去ってしまいました。中身のワインは、表象して立てる科学の側からすれば、たんなる液体となり、さらにそれが、物質の一般にどこでもありがちな凝集状態の一つになってしまったのです。瓶が納める中身とは何であり、また、それを瓶はどのように納めるのか、ということについてつくづく考えることを、私たちは放置してきたのです。(pp.28-29)

瓶の空洞は、どんなふうに納めるはたらきをするのでしょうか。それは、注ぎ入れられたものを受けとる、というふうにしてです。瓶が納めるはたらきをするのは、とり入れたものを保っておく、というふうにしてです。空洞が納めるはたらきをするのは、受けとりつつ保っておく、という二重の仕方においてなのです。それゆえ、「納める」という言葉は二義的です。注ぎ入れられたものを受けとり、注がれたものを中に保つ、という二とおりのはたらきは、それでいて、たがいに連関しています。ところで、この両者の統一は、注ぎ出すはたらきのほうから規定されており、このはたらきに調子が合うように、瓶としての瓶はできています。このように、空洞の納めるはたらきの二重性は、注ぎ出すはたらきによるのです。納めるはたらきは、注ぎ出すはたらきをしてこそ、ありのままの本来的なあり方をとるのです。瓶から注ぎ出すはたらきとは、捧げるはたらきです。注がれたものを捧げるはたらきにおいて本質を発揮しているのが、容器の納めるはたらきなのです。納めるはたらきは、納めるはたらきをするものとしての空洞を必要としています。納めるはたらきをする空洞の本質は、捧げるはたらきに集約されています。しかし、捧げるはたらきは、たんに汲み出すはたらきよりも豊かです。瓶は、捧げるはたらきにおいてこそ瓶なのですが、この捧げるはたらきは、受けとりつつ保っておくという二重の意味での納めるはたらきへと、しかも注ぎ出すはたらきへと、おのずと集約されているのです。ドイツ語では、山〔Berg〕の集まりのことを、山脈〔das Gebirge〕と呼びます。二重の納めるはたらきが、注ぎ出すはたらきのうちへと集約されたものが、一緒にまとまってはじめて、捧げるはたらき〔Schenken〕のまったき本質をなすのですが、この集まりのことを私たちは、捧げることの全体〔Geschenk〕と名づけましょう。瓶の瓶らしさは、注がれたものを捧げることの全体のうちで、本質を発揮しています。空の瓶にしても、その本質を保持するのは、捧げることの全体からです。たとえ、瓶が空になると、汲み出すはたらきを容認しなくなるとしても、そうです。しかるに、このように容認しないということ自体、瓶に固有であり、かつ、瓶にのみ固有です。(後略)(pp.29-30)