「地平」(『危機』から)

承前*1

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

フッサールの『危機』からメモ。
先ず第47節;


(前略)個物は、意識されたものとして見れば、それだけであるわけではなく、物の知覚は、ある知覚野の中での物の知覚なのである。そして、真に知覚されているものは、それに調和しつつ帰属する可能なる知覚的呈示の体系的様相を「指示する」ものであるが、そのかぎり、知覚されている個々の物も、「可能なる知覚」の開かれた地平によってのみ意味をもつことになる。だが、それと同様に物はもう一つの地平をもっている、つまり「内部地平」に対して、まさしくある事物野(Dingfeld)に属するものとして「外部地平」をももっている。そして、物は、結局は「知覚世界としての世界」全体を指示しているのである。物は、同時に現実的に知覚される諸物の全群の中の一つなのであるが、しかしこの群がわれわれにとって意識される世界なのではなく、その群において世界が自己を呈示するのであり、この群は、われわれにとっての瞬間的知覚野として、いつもすでに世界「の」一断面、つまり知覚されることの可能な物の総体の一断面という性格をもっている。したがって、それは、そのつどの現在の世界なのであり、世界はわたしに対してそのつど、「根源的現前」(これによって、現に知覚されているおのそのものの連続的な主観的性格が指示されている)の核と、その内的および外的な地平となる妥当とによって自己を呈示しているのである。(pp.229-230)
第49節;

まことに、到達されたいかなる「根底」も再びその根底を指示し、開かれたいかなる地平も新たな地平を呼びさます。しかも無限の全体は、その流動の無限性のままに、意味の統一へと向けられている。しかしもちろんそれは、われわれがその意味をいきなり把握でき、理解できるということではない。そうではなくて、人が意味形成の普遍的な形式をある程度心得るやいなや、この全体的意味の広さと深さとが、その無限の全体性のままで、軸となる諸次元を獲得するのである。(p.241)