「近さ」と「物」(ハイデガー)

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎*1訳、、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)から。


(前略)近さの本質を経験するにはどうすればよいのか。近さをじかに眼前に見いだす、などということはできそうにありません。近さを見いだすことに成功するのは、むしろ、近くに有るもののあとを追っていくといういうふうにして、です。私たちにとって近くに有るものを、私たちはふつう、物と呼んでいます。それにしても、物とは何でしょうか。人間はこれまで、近さを熟考してこなかったのと同様に、物を物としては熟考してきませんでした。物の一つに(略)瓶があります。瓶とは何でしょうか。容器、つまりそのなかに他の何かを納めるもの、と私たちは答えるでしょう。(略)容器である以上、瓶は、それ自体で立っています。このようにそれ自体で立つことが、瓶を、自立的なものとして特徴づけているのです。自立的対象〔Selbststand〕である点で、瓶は、対立的物象という意味での対象〔Gegenstand〕からは区別されます。自立的なものが対象となりうるのは、私たちがそれを私たちの前に立てて表象する〔vorstellen〕ときです。現在じかに知覚する場合にせよ、過去を想起してありありと思い描く場合にせよ、そうです。とはいえ、物の物らしさのゆえんは、ある物が、表象して立てるはたらきの対象ということには存していませんし、そもそも、物の物らしさというのは、対象の対象性のほうからは規定されはしません。
瓶は、私たちがそれを表象として立てようが立てまいが、あくまで容器です。容器である以上、瓶はそれ自体で立っています。(略)瓶が容器として立っているのは、何といっても、その瓶が立つことへともたらされたかぎりにおいてです。じっさい、この立つことへもたらされるということが起こったのであり、しかもそれが起こるのは、何らかの立てるはたらきによって、すなわち制作して立てるはたらき〔Herstellen〕によってです。陶工は、瓶を作るためにとくに大地から選びぬかれて調合された土をもとに、土製の瓶を製造します。瓶は、大地を原料として成り立っています。そのうえ瓶は、原料である大地のおかげで、大地の上に立つこともできます。(略)そのように制作して立てるはたらきによって存立するものこそが、それ自体で立つものなのです。制作して立てられた容器としての瓶を受けとめるとき、私たちは何といっても、その瓶を一個の物としてとらえているのであり、たんなる対象としてとらえているのでは断じてありません。少なくともそう見えます。
(略)もはや瓶は、たんに表象して立てるはたらきの対象とのみ見なされてはいません。しかしその代わりに、瓶は、制作して立てられることによって、こちらのほうへ、つまり私たちに対して、かつ私たちに向けて、立てられているのですから、その点ではやはり対象なのです。(略)じつをいうと私たちは、それ自体で立つことを、けっきょく制作して立てるはたらきのほうから考えているのです。それ自体で立つことは、制作して立てるはたらきがめざしている当の目標です。しかし、それ自体で立つことは、その場合でも依然として、対象性のほうから考えられています。たとえ、制作して立てられたものが対向的に立つことは、たんに表象して立てるはたらきに、もはや基づいていないとしても、です。いずれにせよ、対立的物象や自立的物象の対象性からは、物の物らしさへの道は通じていません。(pp.18-21)