- 作者: 木田元
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2008/05/24
- メディア: 文庫
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数日前に木田元*1『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』を読了。
「ハイデガーを読む」は中央大学文学部における最終講義。ここでは先ず、木田先生の生涯の主要な関心がフッサールでもメルロ=ポンティでもなくハイデガーであったことが宣言される。曰く、
最終講義 ハイデガーを読む
最終講演 哲学と文学 エルンスト・マッハをめぐって
最終講義・補説 『存在と時間』をめぐる思想史
あとがき
文庫版あとがき
解説(村岡晋一)
木田元略歴
これを読んでショックを感じた人も少なくないのでは? 勿論私は後期の木田先生の思考や文章にそれなりに親しんできたので納得できるが、やはり若い頃は、木田先生といえば、岩波新書の『現象学』の著者であり、フッサールの『危機』の訳者だったのだ。
私が東北大学に入って哲学の勉強を始めたのが一九五〇年ですから、そこから数えるとざっと五〇年、中央大学に就職したのが一九六〇年ですから、そこから数えるとざっと四〇年、この間なにをしてきたかと申しますと、その答えは実に簡単で、終始ハイデガー(一八八九〜一九七六)を読みつづけてきたと言っていいかと思います。
(略)むろんその間にほかの哲学者の本もずいぶん読みましたし、翻訳などはほかの哲学者のものばかりやってきましたが、それでもやはりいまだにハイデガーがいちばん面白いと思っていますから、ハイデガーを読みつづけてきたという言い方で、自分のこれまでやってきたことを要約してよいと思います。(pp.10-11)
- 作者: 木田元
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1970/09/21
- メディア: 新書
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- 作者: エドムント・フッサール,細谷恒夫,木田元
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1974/01
- メディア: 単行本
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どうやらハイデガーが最初に発想し、本当に書きたかったのは、『存在と時間』で言うなら、第二部の西洋哲学史の見なおしの部分で、第一部第三篇は、その歴史的考察のための方法的視座の獲得に当てられ、実際に書かれた第一部第一、二篇は、にわかに思いつかれた導入部らしいのです。ところが、かなり時務的な狙いもこめて書かれたこの導入部が、うまく第一部第三篇に話をつないでくれない。そこで書き継ぐのを断念した。しかし、第二部で書こうとしていた西洋哲学史の見直し作業の構想は依然として生きている。この企ては放棄されていない(後略)(pp.39-40)
(前略)「時間と存在」という表題が予定されていた第一部第三篇で、〈存在―生成〉〈存在―被制作性〉といったさまざまな存在概念に、それぞれ特有の時間的意味がふくまれていることを問題にし、いわゆる〈存在了解〉が現存在(人間)の時間性――人間がおのれ自身を時間として展開する仕方――が変わり、そこから異なった存在概念が形成される、ということを明らかにするはずでした。(後略)*3(p.56)
『存在と時間』の当初の構想では、西洋文化形成の基底に据えられた〈存在――被制作性〉という存在概念、ないしはそれに由来する〈物質的自然観〉――自然を制作のための死せる材料としか見ない自然観――は、人間の非本来的な時間性――〈現在〉だけが優越する時間化の仕方――を場にしておこなわれる存在了解から生じたものだということが明らかにされるはずでした。その上でハイデガーは、人間を非本来性から本来性に立ち返らせることによって存在了解を変え、それとはまったく異なった〈存在―生成〉と見るような存在概念、そして、自然を生きて生成するものと見る自然観を復権し、文化形成の方向を転換しようと企てるつもりだったようです。(p.57)
(前略)彼は、〈存在――被制作性〉という存在概念や〈物質的自然観〉と、人間が存在者全体の〈基体=主体〉になろうとする人間主義とは連動していると考えていますから、彼の企ては、人間中心主義的な近代文化の克服という意味をもっていました。近代批判、近代主義批判がその眼目だったはずなのです。ところが彼は、これを、人間みずから自分自身の生き方を変え、存在了解を変えることによって果たそうと考えていたことになります。つまり、人間中心主義的世界の克服を人間が主導権をにぎって果たそう、近代主義の克服を近代主義の手法でやろうというのですから、そこには明らかに自家撞着があります。ハイデガー自身、やがてこのことに気づいたのでしょう。これが『存在と時間』を中断し、『現象学の根本問題』の講義を中断した理由だと思います。
ハイデガーは、こうした自家撞着の生じてきたのは〈存在了解〉という考え方によると見たようです。つまり、人間がその生き方を変えることによって、〈ある〉ということについての了解を自由に変えることができると考えたのが間違いだと気づいたのです。一九三〇年代のどの時点でかははっきりしませんが、彼は〈存在了解〉という概念を捨て、〈存在の生起〉という概念を採用することになります。彼は『形而上学入門』(一九三五年)という講義の全集版の付録の一節で「存在了解から存在の生起へ!」というモットーを掲げていますが*4、これが彼の前期から後期へのいわゆる〈思索の転回〉の指標なのだと思います。その転回は、けっして〈前期―実存思想〉から〈後期―存在思想〉への転回なんかではありません。それは、人間が存在というものをに対してもつ関係についての変更なのです。しかし、そこでも、〈存在と時間〉という視点から西洋哲学史、いやさらには西洋文化形成の歴史を見なおそうという作業は一貫して継続されているのです。ハイデガーの眼は終始、この西洋文化形成の歴史において、〈哲学〉と呼ばれる特異な知の果たした役割に向けられています。(pp.58-59)
- 作者: マルティン・ハイデガー,Martin Heidegger,桑木務
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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- 作者: マルティン・ハイデガー,Martin Heidegger,桑木務
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1991/11
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- 作者: マルティン・ハイデガー,Martin Heidegger,桑木務
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1963/02/16
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「『存在と時間』をめぐる思想史」は『存在と時間』出現の歴史的背景についての小論。ハイデガーの「ナチス」問題にも言及される。関連する文献としては、先ずジョージ・スタイナーの『ハイデガー』。また、脇圭平『知識人と政治』が言及されている。
ヴァレリーがニーチェに深い共感を示していたことはよく知られています。となると、世紀転換期にマッハとニーチェを一つの焦点にして、アヴェナリウス、フッサール、ホーフマンスタール、ムージル、ヴァレリー、さらにはアインシュタインとその親友のフリードリッヒ・アードラー、レーニンとトロツキー、それにボグダーノフやルナチャルスキー、バザーロフ、ヴァレンチーノフといったロシア・マッハ主義者たち、エーレンフェルス、マイノングの率いる〈グラーツ学派〉、ベルリン大学のシェトゥムプフと、その教え子のヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーといった〈ベルリン学派〉の心理学者たち、ウィトゲンシュタイン、っそいてシェリックをとりまく〈ウィーン学団〉の人たち……、こういった哲学者や文学者が複雑に交錯しあいながら形づくる広大な知的空間が開かれていたことになります。(pp.119-120)
- 作者: G.スタイナー,George Steiner,生松敬三
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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- 作者: 脇圭平
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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*1:See eg. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%94%B0%E5%85%83 Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162865739 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070530/1180549562 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090630/1246337552 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090731/1249061946 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091217/1261049929 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101105/1288980247 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140614/1402765013 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140618/1403024445 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141107/1415288740 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180206/1517893783 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180304/1520142007
*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060108/1136730298 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070218/1171809771 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091116/1258370011 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091130/1259594080 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091212/1260644088 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091223/1261595612 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100110/1263146695 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110111/1294728582 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110120/1295514427 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110731/1312133286 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130523/1369282829 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20141107/1415288740 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170906/1504668432 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170921/1505965976 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180417/1523932744
*3:cf.木田元『ハイデガーの思想』
*4:平凡社版には「付録」は収録されていない。「付録」については、川原栄峰「改訂版(平凡社ライブライリー版)訳者あとがき」、pp.420-421も参照されたい。
*5:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091217/1261049929