「道徳」は「科学」か

承前*1

先ず、http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080120/1200799001から;


水からの伝言」が道徳の授業なんかで使われた問題については、「ニセ科学を肯定的に教えてしまう」ことと、「科学を道徳の根拠にする」ことの二重の問題があるわけですよね。で、後者については、結構微妙なケースもあるんじゃないかという気もしているわけです。正確に言うならば、道徳を教えるときに科学を引き合いに出すことを「どの程度厳しく戒めるべきか」は、案外微妙なところがあるんじゃないかと。


それはニセ科学じゃない本物の科学を引き合いに出した場合を想像して、ふと思ったことです。たとえば、ある動物や昆虫が、利他的な行動をとることが生物学的に知られているとします。これを引き合いに出して「○○でさえ思いやりの心がある。人間も見習うべきだ」というように道徳的な主張に「利用」したとします。この発言は、非難されるべきでしょうか?

もちろん、その動物が利他的であろうがなかろうが、そんなことには関係なく思いやりを大事にするべきです。それはそうです。科学を道徳に利用しようとした上の例は不適切だろうとは、僕も思います。だけど、このくらいのことだったらそんなに「こっぴどく批判」しなければならないとまでは思えないんですよね…。そんなに罪がないような感じがするっていうか。もちろん正しいとは言わないし、誰かがああ言ったら僕は「ま、○○がどうかには関係なく、思いやりは大事だけどね」くらいの指摘はするでしょうけど、でも「それは間違ってる、おかしい」とまでは言わなさそう、というか。微妙じゃないかな、っていう。どうなんでしょうね。

まあ、駄目でしょうね。というか、あっち行ってろというべきだろう。
さて、


小飼弾「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50721940.html


先ず、菊池誠氏の


何度も言ってることなんですが、あらためて書くことにしました
 
「道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない」
 
道徳を物質科学で基礎づけようとするのが「水伝」だったし、しつけの根拠を脳科学に求めようとするのが「ゲーム脳」でした。いや、提唱者がそうだというよりは、むしろ、受け入れる側の思考としてそうなっているという意味です。
それはやはり受け入れる側の「思考や思想の脆弱さ」を示すのだし、あるいは道徳やしつけに対する「自信のなさ」の表れです。もちろん、僕もそんなものに自信はないのだけど、だからといって、自然科学に頼ったところでなにも教えてくれるはずはないことは知っているので。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987
という発言を批判するところから始まる。曰く、「自然科学者の怠慢の証拠でもある」と。

しかし、実際のところ、我々は自然科学なしに道徳やしつけを設計することは出来ない。仮に保存則が成り立たなかったとしたら、所有権という概念を我々が得る事はなかったろうし、罪と罰という考えかたそのものが、囚人のジレンマの応用と見なすことも出来る。いくら我々が自由だといっても、それは物理法則が許す範囲での自由に過ぎない。私には移動の自由があるが、今から一秒後に月に移動する自由は宇宙が禁じている—少なくとも、物理はそう言っている。どうあがこうが、我々は宇宙という監獄の中の囚人なのだ。
先ず、「道徳」が「設計」できるものなのかどうかが大問題なのだ(ハイエク先生、どう思いますか)。しかし、それはさて措いて、「囚人のジレンマ」って、「自然科学」ではなくて社会科学なんだけどという突っ込みもあるが、この主張(特に前半)が間違っているというのは、「自然科学」以前から「道徳やしつけ」は存在していたという事実を挙げれば既に十分だろう。「保存則」が幼児の主観的リアリティとして取得されるプロセスについては、既にピアジェなどの発達心理学的研究がある筈。さらに言えば、科学理論も道徳的教説も全て〈二次的構成物(second-hand constructs)〉であるということが無視されているというのは批判されなければならないだろう。これらの理論的言説は、身体的感覚にも遡りうる私たちの生活世界的な理念化の二次的構成として、またそこにおける媒体である自然言語を究極のメタ言語としてしか存立しえない。フッサールならば、「理念の衣」を被せるなというか。
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

さて、別の視点からいうとすれば、近現代社会において、科学、道徳、宗教、政治、法律といった各セクターにおいて、それぞれのシステムにおける(としての)コミュニケーションを統べるバイナリー・コードはそれぞれ異なっているということがある*2。勿論、それぞれが〈無関係〉なのではない。お互いに環境として振る舞いを観察し・参照するということはある。しかし、その効果は全く不確定であるといわなければならない。
また、〈科学者の社会的責任〉のようなことことも言及されている。この問題に関しては、そもそも科学と技術、理学部と工学部の区別を論じなければいけないのだろうけど、それは飛ばすとして、折原浩氏が紹介しているように*3、科学者による道徳的な悪業は寧ろ科学者が科学以外のこと、世俗的道徳等に配慮し、或いは妥協してしまうことによって為されるのである。