池田光穂「フィールドワークの現象学」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030724field.html
『デカルト的省察』の訳者の浜渦先生は、フッサールがここで使っている「感情移入(Einfuhlung)」についてのありがちな誤解を解くために解説を試みている(「解説」、pp.371-372)。それによると、Husserliana以外のテクスト、Philosophische Bibliothek版、(エマニュエル・レヴィナスが関わった)仏訳本、Dorion Cairnsによる英訳本を対照すると、Husserliana以外では「感情移入」は括弧で括られている(Husserlianaのみ、イタリック)。また、「所謂」(英訳本ではso-called)がつけられている箇所もある。さらに、「感情移入」が使用されている5箇所のうち3箇所では、「他者経験(Fremderfahrung)」の言い換えであることが明記されている。つまり、「感情移入」はフッサールにとっては他人の言葉であり、俗に「感情移入」と言われているものを「他者経験」として捉え返そうとしていたと言える。
超越論的主観性が独我的で社会的なものの考察に使えないという批判にフッサールは答えて、相互主観性(Intersubjektivita"t)への可能性を開く、他者の経験を自分がどのように体験するのかという可能性について考える。フッサールによると、それは他者の経験を感情移入(Einfu"hlung)することによって可能にするという。他者の心の中(=内面)は分からない。しかし、自分がそうすることの想像を通して、他者の経験を追体験することができるという。その時、自己の主観のなかに他者の主観が移入されて、自我の中に相互主観性ができるというのである。複数の人によって共有された主観の世界こそが、生活世界なのである(→フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)。しかし、この感情移入というフッサールが提示した方法は、方法論的にはナイーブだ(ちょうど文芸批評理論における印象主義のように思われる)。フッサールが相互主観性に満ち満ちている生活世界の理解において、他者への感情移入(Einfu"hlung)が可能にすると主張した時に、その理論的な脆弱性を埋める(=補強する?)ものが、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論おいて展開されていると言っても過言ではない。
「第五省察」における他者の構成についての議論は勿論かなり錯綜しており、1箇所引用すれば他者構成論がずばりわかってしまうということはありえない。しかし、次に引用するパッセージからは、池田氏の叙述とは違った他者構成の機序が読み取れるのではないか。第56節「モナド間の共同性は、高次の段階の構成による」から;
また、「超越論的な間主観性」について;
(前略)他者が私のうちで他者として構成されるということは、他者が存在するもの、しかもそのように存在するものとして、私にとって意味と効力をもちうるための、唯一考えられる仕方である。他者が絶えず確認されるべき源泉から意味と効力をもつとすれば、他者がまさに存在する、と私は言わなければならないが、それはもっぱら、他者が構成されるという意味においてなのである。つまり、なるほど、私が私自身で存在するのとちょうど同じように、モナドもそれ自身で存在する。しかし、このモナドはまた共同性のうちにあり、それゆえ(略)具体的な我としての私、モナドとしての私との結合のうちにある。他のモナドがもつ体験から私がもつ体験へ、またおよそ彼らに固有で本質的なものから私に固有で本質的なものへと、いかなる実質的な結合による橋渡しも行われない以上、他のモナドが実質的に私のモナドから分け隔てられていることは確かである。そのことに対応しているのが、まさに「実在的」な分離であり、私の心理物理的な存在(Da-sein)を他者の心理物理的な存在(Da-sein)から隔てている世界内での分離、すなわち、客観的な身体のもつ空間性によって空間的なものとして現れる分離である。しかしながら他方で、あの根源的な共同性がなくなってしまうわけではない。たとえばそれぞれのモナドが実質的には絶対的に孤立した統一体であるとしても、他者の原初性が私の原初性のうちへ、非実在的に志向的に入り込んでくることは、決して、夢を見て入り込むとか、単なる一種の想像によって思い浮かべるとかいった意味で「非実在的」、ということを意味しているのではない。そうではなく、そこでは、存在するものと存在するものとが志向的な共同性のうちにあるのだ。それは、原理的に独特の仕方で結合していることであり、現実的な共同性であって、それはまさに、世界(すなわち、人間の世界と事象の世界)の存在を超越論的に可能にしているような共同性なのである。(pp.230-231)
それは、言うまでもなく、純粋に私のうち、つまり省察する我のうちで、純粋に私の志向性という源泉から、私にとって存在するものとして構成される。にもかかわらず、それは(「他者」という変様をもった)それぞれのモナドのうちで、異なる主観的な現出の仕方をもちながらも、同じものとして構成される。しかも、同じ客観的世界を必然的に自らのうちに担ったものとして構成されるのである。明らかに、私のうちで(同様に、私にとって考えられるあらゆるモナドの共同性のうちで)超越論的に構成される世界の本質には、次のことが属している。つまり、それが本質的にまた人間の世界でもあること、それが個々の人間の心のうちの志向的体験において、さまざまな程度の完全さをもって構成されるということ、そして、それは「心的生活」としてそれなりにすでに世界内部に存在するものとして構成されているということ、こうしたことである。客観的世界の心的な構成とは、例えば私の現実的および可能的世界経験として理解される。ここで「私の」とは、自分自身を人間として経験している自我の、ということを意味している。この経験は、さまざまな程度の完全さをもち、つねに開かれた未規定の地平をもっている。この地平のうちには、すべての人間にとってすべての他者が、物理的に、心理物理的に、内部心理的に、開かれて限りなく近づくことができるものの領土として含まれている。そこにはうまく近づける場合とうまく近づけない場合があり、たいていはうまく近づけないのだとしても。(pp.233-234)
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浜渦先生は「生活の周囲世界(Lebensunwelt)」という言葉についての訳註で、
よく考えてみよう。根本から省察する哲学者としての私たちはいまでは、私たちにとって通用している学問も、私たちにとって存在する世界も持っていない。世界は端的に存在するのではなく、すなわち、経験がもつ存在の信念のうちで自然に通用しているのではなく、それは単なる存在の要求に過ぎなくなる。このことはまた、あらゆる他の我〔他者〕*1が周りに存在することについても当てはまるので、私たちは本来もはや、コミュニケーションで使うような〔私たちという〕複数で語ってはならない。ほかの人間達や動物達は、物理的な身体の感性的な経験によって与えられたものに過ぎず、それが通用するかどうかはともに問われているものとして、利用してはならない。もちろん、他者を失うとともに、私は社会と文化の形成物の全体を失うことになる。要するに、物理的な自然のみならず、具体的な生活の周囲世界の全体が、もはや私にとっては存在ではなく、単なる存在という現象に過ぎなくなる。(pp.45-46)
と述べている。
フッサールは『イデーンI』において、自然的態度の世界を「周囲世界(Umwelt)」と呼んでいた(因みに、これは、同時代の生物学者ユクスキュル*2が使い、「環境世界」と訳されている語であり、また、その後、現代においては、環境破壊や環境保護などという文脈で普通に「環境」と訳されている語でもある)。やがて、晩年の『危機』においては、「生活世界(Lebenswelt)」として特別な意味合いをもって使われるようになる。本書では、この「生活の周囲世界」とともに「生活世界」という語も出てくるが、『危機』に見られる「生活世界」の思想はまだ全面に出てきていない。(pp.290-291)
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池田さんのテクストに戻る。「フッサールが相互主観性に満ち満ちている生活世界の理解において、他者への感情移入(Einfu"hlung)が可能にすると主張した時に、その理論的な脆弱性を埋める(=補強する?)ものが、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論おいて展開されていると言っても過言ではない」。「後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論」については、リンクされている「他者の痛みと嘘つきのはじまり」というテクスト*3でも具体的には展開されず、やはり同じように、「フッサールが相互主観性に満ち満ちている生活世界(同じものではないがヴィトゲンシュタインの用語では「生活様式」)の理解において、他者への感情移入(Einfu"hlung)が可能にすると主張した時に、その理論的な脆弱性を埋める(=補強する?)ものが、言語ゲーム論おいて展開されていると言っても過言ではない」とテクストが閉じられている。「生活世界」と「言語ゲーム」の関係についてはなかなか辿り着けないのだ。
See also eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090521/1242870511 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090720/1248115589