歴史としての自然(フッサール)

新・岩波講座 哲学〈5〉自然とコスモス

新・岩波講座 哲学〈5〉自然とコスモス

礒江景孜「自然と歴史」*1(in 『新・岩波講座哲学5 自然とコスモス』、pp.60-84)から。


フッサールの精神的世界の構成がディルタイのそれと本質的に一致していることはフッサール自身が認めていることであるが、フッサールでは環境的自然の主体は表象し感じ、価値づけ努力し行為する存在者としての「人格」と言われ、その「人格主義的態度」の根底に置かれる。むしろ自然主義的態度は「人格的自我の一種の自己忘却」によって生じてくる*2。この視点をフッサールは歴史における自然解釈にまで拡げる。
歴史における環境的自然はその都度の時代に相関的であり、「一個の社会的カテゴリー」である。歴史家が取扱う対象はそうした社会的カテゴリーの下での自然であって、古代ギリシアの歴史を取扱うときには当然古代ギリシア人によって直接生きられた自然である。この「古代ギリシアの自然」は古代ギリシア人にとって自然と見なされたもの、まさしく彼らがその中で生きていた現実的世界として環境として存在していたものである。古代ギリシア人の「歴史的環境」(historische Umwelt)は今日のわれわれの意味する客観的自然ではなくて彼らの「世界表象」(Weltvorstellung)、あるいは自然表象である。それは彼らが関係していた自然であって、自然宗教の神々も共に存在していた自然である。この意味で環境的自然は「精神的領域に場所を占める概念」であると言われる*3。したがってわれわれの環境はわれわれの中の、またわれわれの「歴史的生活の中の精神的形象」である。こうして環境的自然を精神に疎遠な単なる物質的自然と見なして精神科学ないし歴史科学を自然科学的に基礎づけ、いわゆる「精密化」しようとする実証主義・科学主義は背理である。しかしフッサールのこうした自然理解は自然科学にもはね返って、客観化的な自然科学は前科学的な自然経験を基礎とすることを要求されるだろう。(pp.79-80)