「四方界」から「物」へ

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)。
「注がれたもの」には「大地」と「天空」と「死すべき者たち」と「神的な者たち」という四者が「やどり続けている」。これらは「おのずから一になりつつ、たがいに帰属して」おり、「現前的にあり続けるすべてのものに先立って、単一化されて、唯一の四方界〔Geviert〕を織りなしている」(pp.32-33)。


注がれたものを捧げることの全体に、四者が織りなす単一性はやどり続けています。
注がれたものを捧げることの全体が、そもそも捧げることの全体であるのは、それが、大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちを、やどり続けさせるかぎりにおいてです。もっとも、やどり続けさせる〔Verweilen〕とは、ここではもはや、ごろっとそこにあるものがただ居すわっているという〔通例の自動詞的な〕意味ではありません。やどり続けさせるはたらきは、出来事として本有化します〔Verweilen erelgnet〕。つまりこのはたらきは、四者をそれらに固有な本性の光のうちへもたらすのです。この固有な本性の織りなす単一性にもとづいて、四者はたがいに契りを結んでいます。この組み合わせにおいて一になりつつ、四者は隠れもなく真なのです。注がれたものを捧げることの全体は、四者からなる四方界の織りなす単一性を、やどり続けさせます、ところで、捧げることの全体のうちで、瓶は瓶として本質を発揮しています。捧げることの全体には、捧げるはたらきに属しているものが集約されています。つまり、二重の納めるはたらき、納めるはたらきをする空洞、および献ずるはたらきとしての注ぎ出すはたらき、がそれです。捧げることの全体のうちに集約されたものは、四方界を出来事として本有化しつつやどり続けさせるという一点に、おのれ自身を集中させます。多様に織りなされつつも単純な、この集約するはたらきこそ、瓶が本質を発揮しているところにほかなりません。ドイツ語には、集約の何たるを名ざす古語が一つあります。ティング〔thing〕という言葉がそれです。瓶の本質は、単一に織りなされる四方界をしばしの間のやどりへと捧げる純粋な集約化です。瓶が本質を発揮しているのは、物としてなのです。瓶が瓶であるのは、物だからこそです。(略)物は物化します〔Das Ding dingt〕。この物化のはたらき〔Dingen〕は、集約します。つまり、物化のはたらきは、四方界を出来事として本有化しつつ、その四方界のしばしの間のやどりを、おりおりの風物のうちへ集めます。すなわち、あれやこれやの物のうちへ集めるのです。(pp.33-34)
このように経験・思索された「瓶の本質」が「物」であり、「物化」とは「四方界を、集約し、出来事として本有化しつつ、やどり続けさせるはたらきのこと」。私たちは、「物化を考えるにあたって、物(Ding)の語源」である、「ディングという古高ドイツ語」を想起する(pp.34-35)。