レヴィ=ストロース/ウッディ・アレンその他

 8月2日、『レヴィ=ストロース講義』(川田順造渡辺公三訳、平凡社ライブラリー)を読了する。
 そもそもは20年近くも前、1986年にクロード・レヴィ=ストロースが東京で行った講演である。サイマル出版会から出版されたときには、訳文とともに仏蘭西語のテクストも収録されていた(今回の平凡社ヴァージョンでは仏蘭西語はなし)。
 ここには、既にお馴染みかも知れないレヴィ=ストロースのエッセンスがぎっしりと詰まっている。とりわけ、「「正真」な社会」と「「まがいもの」の社会」の区別(pp.41-45)は重要。また、〈生殖技術〉や〈南北問題〉といった〈先端的〉な問題にも論及がなされているが、これらは20年経った現在においても、なお傾聴に値するといえる。また、狩猟・採集経済と伝染病(ウィルス)との関係(pp.28-30)も興味深い。また、農耕経済への移行は栄養学的には「退歩」であるという指摘も(p.100)。
 ところで、レヴィ=ストロースは、船曳建夫の質問に答える中で、


 さて、[船曳の]ご発言のなかの「社会は必要悪である」という点については、私は完全にその通りだと思います。じっさい人間は社会のなかで生きる以外の生き方はできませんし、今までもそれ以外の生き方はなかったわけですが、社会はさまざまな恩恵を与え、可能性を供すると同時に、きわめて負担の大きな隷属状態にほかなりません。まさにこの隷属状態に対して、世界中の多くの神話が、別の、至福にみちた生き方のできるある種の「黄金時代」を、想像のなかで対置しようとしています。もちろん、それが不可能であることはわかっているのですが(pp.143-144)
と述べている。やっぱり、良くも悪くも〈ルソー主義者〉だ!
 レヴィ=ストロース構造主義というのは、特に昨今のポスト・ポスト構造主義のご時世では、スタティックなもの、自然や社会の本源的なダイナミズムを抑圧しているというイメージを持たれているということも多々あるのではないだろうか。しかし、「進歩」を巡っての次の発言はどうだろうか;

 進歩とは必然的なものでも、連続的なものでもありません。それは飛躍、あるいは生物学者にならって言えば突然変異によって進行します。飛躍はつねに前方へ、そして同じ方向へ向かうとはかぎりません。異なった方向へ、いくつかの動きが可能なチェスの桂馬にも似て、飛躍には方向の変化が伴っています。
 人類の進歩は、一歩一歩階段を登るというよりは、運を託してテーブルの上にサイコロを投げる博打うちに似ています。あるときはもうけても、いつそれをすってしまうかわかりません。歴史の累積は偶然の作用にすぎないのです。言い換えれば、偶然に目が揃って、有利な組み合わせができあがるのです(pp.169-170)。
ところで、私は長年、現象学へと向かう性向と構造論的な思考へと向かう性向(哲学教科書的に言ったら矛盾でしかないもの)を秘めてきた。勿論、

ノエシス  現象学
ノエマ   構造論

という分業は十分に可能なのだろうけど、それはそれでつまらなそうだし、事は実際もっと複雑であろう。ともかく、レヴィ=ストロース先生は、


率直に申しあげて、私は人類学が一般に理解された意味で、つまり英語でハード・サイエンスと呼ばれる意味での科学であるとは思っておりませんし、また将来もそうなるとは思いません。なぜなら前者においては、観察者とその対象が同じ人間であり、観察者が自らの文化や社会環境からくる偏見から自由になるのはたいへんむずかしいばかりでなく、さらに生物学者や物理学者が研究室で観察対象に加える変化とは比べものにならないほど、研究対象に深い変化を与えざるをえないからです(pp.73-74)。
と述べている*1
 レヴィ=ストロースは、人類学は「数世紀も前に生まれた」「人文主義(humanisme)」という「知的・精神的態度にもっとも一般化された表現を与えたもの」であるとしている(p.46)。では、何故「人文主義」が先駆的に「すでにひとつの人類学的行き方を示して」いたのか。それはつまり、

 ひとつの文明は、他のひとつあるいはいくつかの文明を比較対象とすることなしには、自らをかえりみることもできない、という認識があったのです。自らの文化を知り、理解するには、それを他者の視点から見る術を身につけなければならない。それは世阿弥が語っている、自らの芸を判ずるには、自分が観客であるかのようにして、演ずる自分を見なければならないという能役者のやりかたにも似ています(pp.46-47)。
と、世阿弥の「離見の見」を引き合いに出す。それは「異郷化(depaysement)作用の技術」(p.47)であるという。ただし、訳者の川田順造氏は、解説の「レヴィ=ストロース博士の人と学問 平凡社ライブラリー版への追記」において、

世阿弥が説いているのは、「離見の見にて見る所はすなわち見所同心の見なり」という『花鏡』の言葉に凝集されているように、為手が我見を離れることによって、見所すなわち観客と心を共有できる場を創出することにある。つまり人類学でいえば、観察者とその観察対象である人の心が通い合うことの大切さに、むしろ重点が置かれた考え方といえるだろう。これは、アフリカにおける長期の住み込み調査の体験から、私にも実感できる(p.237)。
と異論を述べている。川田氏は、「レヴィ=ストロース先生を通じて目を開かれた世阿弥能楽論を、新しい角度から人類学の認識論にあてはめてみること、それは私にとっての新しい課題だ」(p.238)と書いている。実は、こうした問題系は私にとっても無縁ではない。以前、「理解の原点」というテクストを書いたことがあるが、それで問題が解決したというわけでは全くない。

 ところで、渡辺公三氏によれば、もう20年以上も〈近刊予定〉が続いている『神話論理』の翻訳が進行中であるという(p.244)。


 8月3日早朝、BSでウッディ・アレン監督『おいしい生活(Small Time Crooks)』を観る。原題のSmall Time Crooksは『小悪党ども』くらいの意味か。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050807でも述べたように、ウッディ・アレンはインタヴューでも自らの庶民性を強調していたけれど、この映画で彼が演じているのはまさにその〈庶民〉そのもの。先ずのっけから風貌もファッションも全く冴えないオヤジとして登場。一応、ムショ帰りの強盗なのだけれど、彼がムショ仲間を集めて銀行強盗を企てても、それが必ず失敗すること、つまりギャグであることは最初から目に見えている。題名にもあるように、あくまでも「小悪党」なのだ。それで、〈人生万事塞翁が馬〉というか、銀行強盗の偽装のために妻にやらせていたクッキー屋が大繁盛して、強盗は失敗しても、瞬く間に大企業となって、夫婦ともども一躍成金生活へ。これからは、物語の中心は妻(トレイシー・ウルマン)に移る。金持ちになれば、次に望むのは教養やテイストやエレガンス。それに付け入るのが画商(ヒュー・グラント)で、そうこうしているうちに、会計士に裏切られ、破産したけれども、夫婦のよりは戻るというハッピー・エンド。フレンチー(トレイシー・ウルマン)もジュエリーの真贋を見破るほどの審美眼は身につけていた。
 『ニューヨーク・タイムズ』のStephen Holden氏のレヴューを読んだら、初期のウッディ・アレン、つまり"before Chekhov, Kafka and Ingmar Bergman invaded his creative imagination"への回帰であると述べている。ということは、ここで笑われているのは彼自身の旧作でもあるということだ。
 観る側についていえば、全く笑えないという人は論外だけれど、大笑いしつつも同時に(自分で自分を笑ってるんじゃないかという)後ろめたさをちょっぴり感じるかどうかで、その人の知性が測れるのではないかとも思うのだが、如何だろうか。
 主演の2人のほかに、脇役がいい。ウッディ・アレンの悪党仲間とか。また、フレンチーの(少なくとも最初の内は)一見頭が足りないように見える従姉妹を演じたエレイン・メイがいい味だしている。上述のStephen Holden氏は主役級の扱いをしている。ヒュー・グラントは如何にも如何にも。


 8月4日、宮平望『責任を取り、意味を与える神』(一麦出版社、2000)を読了する。
 著者はプロテスタント神学者神学者の、それも説教や講話をベースにした本ということで、引いてしまう、ということはあるかもしれない。しかし、さにあらず。なかなかスリリングな知的経験を(私のような基督教信仰から遠い人間でも)味あうことができた。例えば、第2章の「責任を取り、意味を与える神」;


 人間は、決して人生を送り終えて、その後往生を迎えるのではない。ある意味で人間は生きれば生きるほど、自分の人生を消耗し、死を手繰り寄せているのである。つまり、生き続けることは、死に続けることに等しい。人間は生きることによってのみ、徐々に死んで行く(pp.36-37)。

 誕生と往生は人生に対して存在論的に優位に立つ。
 誕生が人生に対して存在論的に優位に立つのは、誕生が存在しなければ、その後の人生は存在しえない一方で、人生の存在しない、または殆ど存在しない誕生は存在するからである。つまり、誕生の直後、往生という現実がある。また、精子卵子の殆どと、そして胎児の過半数は、人生を迎えることなく誕生前に生を終える。(略)人間はいつか必ず死ぬのであり、死を回避したことを確証した人間はいない。この意味で往生は、人生に対して存在論的に優位に立つ(p.37)。
また、「人生は、誕生と往生に対して認識論的に優位に立つ」(p.38)。ここから、「人間」には、「人間の誕生」と「人間の往生」に対して「究極的な責任がない」ことが導かれ(pp.40-41)、さらにそこから、「殺人の禁止」と「極刑の禁止」*2が帰結する(p.42)。さらにそこから、神と「御子」(イエス)との関係、神と人間との関係に論が及んでいくのである。
 4章・5章では、新約聖書の詳細な注解が試みられている。特に5章では、カルヴァン的な「予定説」を超えて、「地獄」の意味転換をなさんとしている。私のような異教徒から見ても、大胆な解釈だとは思うが、基督教内部の反応はどんなものだったのだろうか。また、仏教者はこの〈地獄論〉をどう読むのか。因みに、ここで提示されている「火による清め」についての議論(p.168ff.)は、ベンヤミンの「神的暴力」の議論を思い起こさせる。勿論、デリダベンヤミンについて喚起したような〈禍々しさ〉を完全に否定することはできないのだが。
 3章は、主旨は共感可能ではあるが、通俗的な〈日本人論〉に安易にのっかって、文化本質主義の弊あり。


 最近、『臨済録』(岩波文庫)を再び捲ってみた。ところで、臨済禅師が「衣」の譬えを使っている(p.117)。それを読んで、フッサールの『危機』!とか、またベタなことを考えてしまう。


  

*1:ところで、レヴィ=ストロースとシュッツが共有したトポスとしては、ニューヨークのNew School for Social Researchが挙げられるだろう。また、共通の知人としてはメルロ=ポンティが。

*2:「自分の自由意志で誕生を決定しなかった人間は、当然のことながら、誕生する国おも自由に選択しなかったため、その国は法律によって当人に往生、つまり死を強制できないはずである」(p.42、註7)