「瓶」の「瓶」たる、「容器」の「容器」たる

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)から。


瓶というのは、容器としての物の一種です。なるほど、この納めるはたらきをするものは、制作される必要があります。しかし、陶工によって制作して立てられたという性格は、瓶が瓶として有るかぎりでその瓶に固有なもの、をなすものでは断じてありません。瓶が容器であるのは、それが制作して立てられたからではありません。(略)瓶が制作して立てられなければならなかったのは、それがかくかくの容器であるからこそなのです。
もちろん制作は、瓶がそれに固有な本性のうちへ入ってゆくようにします。とはいえ、瓶という存在に固有なそうした本性は、制作によって製造されるのでは決してありません。製造とは独立に、それ自体で立っている瓶は、その固有な本性のうちへ集約されつつおのれを納めているはずです。たしかに瓶は、制作される過程で、制作者に対して前もってその姿かたちを示すのでなければなりません。しかし、このおのれを示すもの、つまり姿かたち(エイドス〔eidos〕、イデア〔idea〕が、瓶を特徴づけるといえるのは、この容器が、制作されるべきものである以上、制作者に対応して立っている、という観点からでしかありません。(pp.21-22)

しかしながら、そのように瓶の姿かたちを呈している容器が何であるか、かくかくの瓶状の物としての瓶が何であり、またいかにあるか、といったことは、姿かたち、つまりイデアという観点を持ち出したところで、決して経験できませんし、ましてや、事柄にそくして思索するなど無理な話です。現前的にあり続けるものの現前性を、姿かたちのほうから表象して立てたプラトンは、それゆえ、物の本質を思索しなかったのです。その点では、アリストテレスにしろ、その以後のどんな思想家にしろ、同様です。むしろプラトン、およそ現前的にあり続けるものすべてを、制作して立てるはたらきの対象として経験したのであり、しかも、それが尺度となって後代に決定的な影響を及ぼすことになりました。そこで私たちは、対象〔Gegenstand〕と言う代わりに、正確を期して、産出に由来する物象〔Herstand〕という言葉を用いることにしましょう。産出に由来して立つ物象〔HER-Stand〕のまったき本質をつかさどっているのは、産出に由来して立つこと〔Her-Stehen〕の二重の意味です。第一に、産出に由来して立つことは、何かから出て来るという意味に解されますが、これにはおのずと生み出される場合もあれば、制作して立てられる場合もあります。第二に、産出に由来して立つことは、産み出されたものが、すでに現前的にあり続けているものの隠れなき真相のうちへ入って来て立つ、という意味にも解されます。(pp.22-23)

(前略)瓶の物らしさのゆえんは、それが容器として有るということのうちに存するのです。この容器の納めるはたらきの部分に気づくのは、私たちがその瓶を何かで満たすときです。納めるはたらきを引き受けているのは、明らかに、瓶の底面と壁面です。いやいや、ほんとうにそうでしょうか。瓶をワインで満たすとき、私たちは、壁面と底面のなかへワインを注いでいるのでしょうか。そうではなく、私たちがワインを注ぐのは、せいぜい壁面のあいだ、かつ底面のうえへ、です。なるほど壁面と底面は、この容器の不浸透性の部分ではあるでしょう。しかし不浸透性の部分だからといって、それでもう納めるはたらきをするわけではありません。瓶いっぱいに注ぐとき、注がれるものは、空の瓶のなかへ流れ込んでこれを満たします。この空洞が、納めるはたらきをする容器の部分なのです。空洞、つまり瓶のこの無の部分こそ、納めるはたらきをする容器としての瓶の本体にほかなりません。(pp.23-24)