「世界の敵」?

「読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ」http://d.hatena.ne.jp/bluebarbe/20110819/1313767215


http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110813/1313239682に触発されたエントリー*1
曰く、


私も読書は反社会的な行為だと思う。

読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。

本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。

故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。

誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。

「人間」も「社会」も「世界」も「目前」のものだけではない。私は私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」が存在することを知っている。「社会」は「目前」の他者たちだけでなく、そのような私が会ったこともなく、また会う術もないような無数の他者たちによって構成されているということを知っている。大森荘蔵がたしか言っていたが、私にとって「世界」は三次元的ではなく四次元的な構造を持つものとして現れる。「世界」は〈現在〉のものだけでなく、(記憶や痕跡としての)〈過去〉や(予期や前兆としての)〈未来〉も組み込んだ仕方で存立している。換言すれば、「世界」には(「目前」かどうかを問わず)生きている人だけでなく、既に/未だ姿を現していない先祖や子孫も住んでいるのである。「世界」のこうした多層的な存立構造については、シュッツのAufbau第4章「社会的世界の構造分析」を参照されたし。言いたいことは、「目前」の「社会」を「無視」するからといって、直ちに「反社会的な行為」だとはいえないということだ。それどころか、書物を初めとするメディア(媒体)を通してしか社会関係が成立しない場合もあるのだ。「目前」にはおらず私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」たちとの社会関係、また既に息を引き取ってしまった「人間」たちとの社会関係。「読書」を通じて、私は50年前に死んだアルフレート・シュッツと、或いは数千年前に死んだ孔子プラトンと関係を結ぶことができる。というか、この人たちと何らかの関係を結ぶには、この人たちが遺した言葉を読み、そこに「連署*2を添えるという仕方しかあり得ない。この意味で、「読書」は「反社会的な行為」ではなく、具体的な他者を志向した行為としての社会的な行為であるといえる。ところで、「過去」の痕跡についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285447119で採り上げていたのだった。そのとき、フェリーニの『そして船は行く』をマークしておいたのだが、さらにヴェンダースの『パリ・テクサス』*3を追加することにしよう。
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ところで、「読書は反社会的な行為だ」ということは「反社会的な行為」の英訳がaction against societyではなく、action against a social organization/ a social community/a social regime...であれば正しいといえる。例えば、それまで資本主義経済を全く自然なものと感じていた人がマルクス主義の書物を偶々読む。それまで金正日将軍様の権威に全く疑いを抱かなかった北朝鮮青年が偶々〈韓流〉小説を読む。それは「目前」の資本主義体制とか朝鮮労働党体制にとっては「反社会的」ではあるが、同時に別の社会体制等へのイニシエーションでもある。つまり、本もTVもインターネットもない完全な引き籠りは別だけど、一般に〈脱社会化(de-socialization)〉 は同時に別の共同体、組織、運動、体制などへの〈社会化(socialization)〉なのだ。「読む者を所属する社会から引き剥がし、帰って来れなくなるかもしれない世界へと導く魔笛であり、その魂に現世(うつしよ)にまで溢れるほど夜の夢を注ぎ込む邪な水差しである」という言葉*4が引かれているが、「引き剥が」されるのは「所属する社会から」にすぎず「引き剥が」された途端別の社会に誘われるわけだし、「帰って来れなくなるかもしれない世界」とは言ってもそれは「世界」の一部分(下位世界)にすぎない。そもそも(グノーシス主義*5にコミットしない限り)私にとって「世界」は単数としてしか存在できない筈だ。
内田樹氏曰く、

小説を読むというのは、(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観もちがう、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
だから、私が小説を評価するときのたいせつな基準は、私がそこに嵌入し、同調する「虚構の身体」の感覚がどれくらいリアルであるか、ということになる。
私が自分の生身の身体で世界を享受しているのとは、違う仕方で、私よりもさらに深く、貪欲に世界を享受している身体に同調するとき、小説を読むことの愉悦は高まる。
http://blog.tatsuru.com/2010/07/04_1125.php
用語法は私のと若干ずれているが、言わんとしていることは理解できる。仮令それまで「未知」であっても読書を通じて「経験」してしまった以上、それは私の「世界」の一部となる。「世界」なので〈世界地図〉に喩えてみると、最初は寝小便と変わらないというか、白地図に毛の生えたようなすかすかの地図が段々と記述が増えて高密度な地図になるという感じか。
読書は「世界の敵」にはならないけれど、読書が、書物などのメディアが「世界」を隠蔽してしまうということはありうる*6フッサール『危機』第9節から引用しておく;

幾何学的な、また自然科学的な数学化のばあいには、われわれは、無限に開いた可能的経験のうちにある生活世界――われわれの具体的な世俗生活の中でたえず現実的なものとして与えられている世界――に、いわゆる客観的科学の真理というぴったりと合った理念の衣を合わせて着せるのである。すなわちわれわれは、(われわれの希望するような)現実的に細部にいたるまで貫徹され、たえず確証される方法によって、生活世界の具体的直観的な諸形態の現実的ならびに可能的、感覚的充実に対して、まず一定の数指標をつくりあげる。そうすることによってわれわれは、まだ現実に与えられていなかったり、もはや現実に与えられていなかったりする、具体的な生活世界の直観的できごとに対する予見――日常的な予見の作業を無限に超えている予見――の可能性を獲得するのである。
「数学と数学的自然科学」という理念の衣――あるいはその代わりに、シンボルの衣、シンボル的、数学的理論の衣といってもよいが――は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をし、それをおおい隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。つまり、生活世界で現実に経験されるものや経験可能なものの内部ではもともとそれしか可能ではない粗雑な予見を、無限に進行する「学的」予見によって修正するための方法を、真の存在だと思い込ませるのである。(後略)(p.73)
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

上のエントリーに戻る。「故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える」。いや、「フィクションの中でも最も罪が重いのは」私小説だよ。金井美恵子先生曰く、

いわば真正な体験を書いているはずの私小説作家もまた、読んだから書いたのであり、ようするに先行するモデルの小説を真似ることで小説を書き、あるいは田中英光などが典型的な例ということになるのでしょうが、破滅的といわれるような作家の生活までを、私小説の理論としては当然、真似しなくてはならないという愚かしいこともありましたが、それは、「作品」と「作者」を同一のものとみなすことから、当然おこるべき帰結でした。(p.148)
小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

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