承前*1
- 作者: 山崎正和
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/05/01
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「主体性」に関連して、山崎正和『社交する人間』からメモ。「能動的」であることは「受動的」であるという話。
目的を一途に追求する人間はいわば衝動に運ばれており、一瞬ごとに行動の過程をうわ滑して前進をつづける。一瞬ごとに過去は現在のための手段となり、現在は未来のための手段となってうち捨てられて行く。現に目的達成を急ぐ人間は過程の省略は工夫するし、できることなら過程などないほうが望ましいと考えている。いわば彼は「なりふりかまわず」行動するのであるが、そういう行動のなかでは感情も野放しにされることは、誰が考えても明らかだろう。(pp.35-36)
目的に過度に集中した意識が全体を覆い、その能動性が、過程の一瞬一瞬をひき留めるもう一つの能動性を麻痺させる。いわば意識は最初の決意の瞬間にだけ能動的に働き、あとは先に見たように慣性に乗せられてうわ滑りして行く。そして意識がこのように時間のうえをうわ滑りし、何ものかにさらわれて行く状態こそ、人が感情に身を任せるということにほかならない。西洋語の「情熱(パッション)」は「受動的(パッシヴ)」と同根であるが、これはことの本質をみごとに示唆している。人はすべて情熱に狂うのであって、裏返せば狂気がたまたま目的志向を伴ったときに情熱と呼ばれるのである。(pp.36-37)
ところで、http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110222/1298385045を読んで、台形の面積の公式を忘れていたことに気づく。それで、2つの三角形に分割してその面積を足すという仕方で面積を出し、それを通じて公式を思い出すことができた。
これにしても、例えばケーキを分ける*2といった日常的な経験に立ち還ってみることで「理解」は可能となるだろう。まあ微分や積分を日常生活世界における経験から「理解」するのはかなり難しいと思うけれど、初歩の数学(算数)というのは日常生活世界における足したり・削ったり・分割したり・合わせたりといった経験を抽象化・形式化したものだということはできるだろう。ここで述べられていることを、哲学(科学史)の文脈でいえば、
そういえば、分数の割り算は、割る数の分母と分子をひっくり返して掛けるというのは、知っている人は多いだろう。「そのくらい常識だよ」と言う人も多いだろう。しかし、「なぜ、割る数の分母と分子をひっくり返して掛けたら、分数の割り算をしたことになるのか」ということがわかっている人は、案外少ないのではないだろうか。私はこれも理解している。
つまり、「現実性」からも切り離されて、「天空に舞い上が」ること(思考すること)も経験させずに、その上澄みだけを暗記させる。ということで、フッサールの『危機』をどうぞということになるのだが。
しかし、数学や論理学は、[ライプニッツ以降]しだいに(直接に経験・直観される)「現実性」を離れて、(思考される)「可能性」の天空に舞い上がっていった。さらにまた、数学に依拠して成立した近代自然科学も、同様に天空に舞い上がっていった。そして、数学や論理学や自然科学があまりに上空に舞い上がった一九世紀後半、疑念が生まれてきた。それらは、拠って立つ地盤を見失ってしまったのではなかろうか。この疑念を最も深刻に感じ取ったのが、フッサールだった。(谷徹『これが現象学だ』、p.37)
- 作者: 谷徹
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- 作者: エドムント・フッサール,細谷恒夫,木田元
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