印と民とか

承前*1

遂に首都圏でも新型インフルエンザ感染者が確認されたという。そういえば、昨日、某駅の近くでホームレス風のオヤジがひなたぼっこしながら、『夕刊フジ』だったか『日刊ゲンダイ』だったかを読んでいたのだが、その紙面にはウィルスが「都内に潜伏」と大きくオレンジ色のタイトルが躍っていた。インフルエンザのウィルスというのは、例えば北朝鮮工作員とかと意味論的に等価なんだね。まあ、そのことを考えると、http://d.hatena.ne.jp/toitsume/20090520/1242831582は興味深い。
さて、


http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20090518/p1


梶ピエール老師の忌野清志郎論。
ここで援用されている生活世界/システムという図式には違和感を覚える。やはりハーバーマスの罪は重いというか。彼がパーソンズAGIL図式を生活世界/システムという図式として改作して以降、そもそも現象学において使われていた生活世界という言葉が隠蔽され、頭を抱えてしまうということがある。ここで言われているような問題は、シュッツの論に沿えば、限定された諸意味領域(finite provinces of meaning)間の移行に伴う「意味変様」の問題として考えられるべきであろう*2。また、フッサールの『危機』における論点でいえば、「理念の衣」による生活世界の隠蔽、方法と実在の取り違えという問題。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090519/1242744670で、「敢えてコメントはせず」と書いたのだが、矢鱈なことを書いて、忌野清志郎ファンの方々の心情を傷つけたくないということがあった。ただ、忌野清志郎が無垢とかピュアといった言葉を使って語られることに対して、ちょっと?を感じていたことも確かなのだ。多分、梶老師もその?を共有されているのではないかと察する。そもそもロックというのは大衆的であることとアヴァンギャルドであることを同時に規範的に要請されているのであって、たんに無垢とかピュアであるなら、そういう立ち位置を持続させることはできないよ。また、清志郎は(特に晩年)敢えてベタにLove & Peace!を叫ぶといった、〈敢えて〉という作法を身に着けていたと思うのだ*3

「インフル」という略語はどうもしっくりこない。タミフルと韻を踏ませようというわけでもない?