「酢の物」と失われたもの

平松洋子*1「「悲しくてやりきれない」」『本の窓』(小学館)398、pp.60-64、2020


「酢の物」特に「きゅうりの酢の物」と「悲しくてやりきれない」(サトウハチロー*2作詞、加藤和彦*3作曲)について。


コトリンゴのカバー曲を初めて聴いたのは、長編アニメーション映画「この世界の片隅に」(監督・片渕須直 原作・こうの史代 二〇一六年 東京テアトル*4だった。映画のオープニングで流れる「悲しくてやりきれない」は、戦争と広島を描く物語の哀しみをあらかじめ耳に届けるのだが、もともと「悲しくてやりきれない」は映画との相性も絶大で、「シコふんじゃった」(脚本・監督・周防正行 一九九二年 東宝)ではおおたか静流、「パッチギ!」(監督・井筒和幸 二〇〇四年 シネカノン*5ではオダギリジョー音楽監督加藤和彦が担当していた)が歌い、強烈な印象を刻んだ。名歌は、映像表現に普遍性を与える装置になり得る。(pp.61-62)

年々歳々、それらの酢の物が忘れがたいものとして存在感を増してゆくのは、瀬戸内の味だからなのだろう。郷土料理の文献を調べてみると、たしかに酢の物は瀬戸内地方の食文化の一要素なのだ。でも、しきりに惹かれるのは郷愁のせいだけではない――ざらついた感情を持て余し、こうして自分がしきりに執着する酢の物とはいったい何なのだろうと考え続けてきた。四、五年前だったか、私の娘に「倉敷のおばあちゃんの料理のなかで好きなものは何」と訊いたことがある。すると、間髪を入れず「きゅうりの酢の物」。母がつくるのは酢と醤油と砂糖を合わせた三杯酢で、とても簡単にちゃっと合わせただけなのに、いま私がつくると、嫌になるくらい薄っぺらい味がする。
ずっと捜していた正体を教えてくれたのが音楽だった。音や声は、言葉よりはるかに速く意味を伝えることがある。浮遊する微粒子を集めたようなコトリンゴの「悲しくてやりきれない」を何度も聴くうち、奇妙な話だけれど、正体はこれなのかと思えたのだ。きいんと一点を突き詰め、弓を引き絞る酢の味の奥まったところには、その容赦のない鋭さゆえに、すでに終わったもの、失われたものの気配がある。ちりりと痛みをともなう刻印、切り傷、瑕疵。私は納得した。郷愁はいつも残酷をともなうものだから、と。(p.64)

この世界の片隅に」もまた、喪失を描く映画だ。広島市江波で少女時代を過ごし、呉に嫁いだ浦野すずの姿を通してこまやかに描かれる「普通」のありさま。皮が白くなるまで食べるすいか。摘んでおかずや汁に仕立てるすみれ、はこべら、たんぽぽ、かたばみ。新聞紙で釜のまわりを埋めて蒸らす飯。いも餅。弁当箱のなかの、尾頭付きのいわしの干物。だいこんを切る庖丁の音にいたるまで、「普通」という実在感のすべてが失われる。
「悲しくてやりきれない」を作詞したサトウハチロー自身も、原爆投下によって身内を亡くした戦争の犠牲者である。八月六日、弟の節は広島中央放送局に勤務する友を見送ったが、別れがたく、大阪駅から転勤先の広島までついて行き、被爆した。サトウハチローは弟を捜したが、遺骨も遺品も手にすることはできなかった。(ibid.)

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/05/23/032117 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/07/23/152450 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/08/17/145517

*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20140707/1404706556 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20140714/1405296901 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/06/16/152012

*3:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20081116/1226865478 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091019/1255884330 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091020/1256012743 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100211/1265814253 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20171204/1512313315 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/05/18/005739

*4:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180324/1521830669 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/06/11/093107 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/06/20/012258 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/12/10/112600 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/12/23/095502 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/16/034839 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/06/01/145035 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/26/084530

*5:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060305/1141541736 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091019/1255884330 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100129/1264776284 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100626/1277547284 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130325/1364181903 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20151211/1449811350 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160129/1454035590 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/11/17/111157