狙われる慶應生(野口冨士男)

野口冨士男『私のなかの東京』*1から。


大正十五年は、帝都とよばれていた旧十五区時代のせまい東京市の大半が焦土と化した関東大震災の直後で、市民の心は荒廃していた。そのうえ当時の慶応義塾ブルジョア学校だと信じられていて、私たちがペンの徽章のついた学帽をかぶっていたせいもあっただろうが、浅草に限らず、東京のどこを歩いてもしばしば硬派の不良少年におどかされて金銭を強要された。震災後の、焼跡ヤミ市派がいたわけである。いまの百円玉のように周囲にギザギザがあったためにギザとよばれていた五十銭玉は二分とかテブともいわれていて、その程度の金額を時には短刀*2まで見せられてゆすられたが、そういう行為はタカリとよばれていた。サトウハチローの『僕の東京物語』で知ったのだとおもうが、少年がねらわれたために「小鳥打ち」ともいったらしく、私は神田や新宿へ映画を観に行っても、また駒沢に住んでいた関係で、世田谷の太子堂などというまだ鄙びていた土地の路上でもやられた。
タカリには学生ばかりでなく、ヤクザやテキ屋もいて、日本橋の上で白昼私をおどかした白絣にカンカン帽をかぶって刺青をしていた若いヤクザは、エンコのなにがしの身内だと名乗った。ケチなタカリのなかには市電の安全地帯――停留所でシャデンを要求するような者もいた。上野をノガミと言うように、エンコは浅草公園の公園、シャデンは電車をさかさに呼んだもので、市電の回数券の一、二枚か往復切符を要求した。そんな奴はどこにでもいたが、浅草には殊に多いといわれていたので私たちは警戒した。特に、私たちが憶病だったからではない。相手になれば、損をするにきまっていたからである。(pp.116-117)
こういうのって、俺の語彙ではカツアゲだけど、これは戦後の言葉なのだろうか。
また、「タカリ」をしていた側の言説が残るということはないんだろうね。
ところで、野口冨士男は慶応の「幼稚舎から普通部を通じて岡本太郎*3と同級」だったという(p.69)。