「比喩の力」

吉岡洋『AIを美学する』*1から。


(前略)人間と同じように意識を持つ機械といった虚構が成立するためには、何らかの演劇的な仕掛けが必要不可欠なのである。たとえば、『禁断の惑星』*2におけるロビーのようなロボットの人間型の筐体、また『2001年宇宙の旅』*3で常に観客を見つめるHAL9000の「眼」*4が、そうした演劇的な仕掛けの典型である。またELIZA*5の場合には、それが女性名であること、またその名前がギリシア神話で自分が作り出した美少女の像に恋をした「ピグマリオーン」、バーナード・ショーによる同名の戯曲、そしてそれを元にしたオードリー・ヘップバーン主演の映画『マイ・フェア・レディ*6に繋がっていることも重要な演出的条件なのである。チェスや将棋でコンピュータが人間の名人と対戦するというのも、いわば演劇そのものだ。人工知能がそれまで人間同士がプレイしてきたボードゲームの問題を解く能力を実証するためだけなら、人間同士の対局と同じような舞台設定する必要なんてまったくない。そこであたかも人間と機械とが対戦しているようにみえるのは、そうしたセッティングから来る効果に他ならないのである。さらに言えば、そもそも「人工知能」という呼び名そのものが、何か人間に挑戦する由々しき存在が現れた!と思わせるような、一種の「レトリック(修辞)」であるとすら言うことができるだろう。(pp.39-40)

(前略)人工知能は本当に存在するのか?という問いにはそれなりの意味がある。まったく素朴な疑問として、そもそも知能、インテリジェンスとは何かということが自明ではないのに、なぜ「人工的なインテリジェンス」について語ることができるのか?ということもある。そこから皮肉な言い方をすれば、人工知能が現実に存在しているようにみえるのは、「人工知能」という呼び名が使用されること(レトリック)の効果だとも言えるのである。だが、レトリックだからといってその背後には何の実体もないというわけではない。(後略)(p.41)

(前略)レトリックには言い回しや弁論術のような、言説を構成するテクニックという側面もあるが、比喩のような、言葉の意味そのものに関わる側面もある。比喩は取り外すことのできるただの飾りではなく、言葉の意味そのものを支えている。私たちの用いる自然言語は論理的思考を表現するための道具ではなくて、元々は音声的・韻文的な活動から進化してきた。つまり、人間が経験する対象や現象に合理的に対応する記号を付与した結果生まれたのではなくて、まず拍子を取って歌ったり語ったりすることを通じて発達してきたということである。記号の合理的体系としての言語とは、いわばそれが高度に発達した「事後」から振り返って理解した時、初めてみえてくる側面である。それに対して自然な状態で言語を用いる時、私たちは比喩などのレトリックを通して世界の意味を知覚しているのであり、その意味で私たちはレトリックから自由になることは原理的に不可能なのである。
人工知能」という言葉に即して言うならば、この「知能」という呼び名は比喩でありレトリックそのものである。私たちは機械のある動作に対してそれがあたかも「知能」を持っているようだ、と言っている。この場合、たしかに私たちは「知能」という比喩に惑わされているのだが、それはたんに騙されているわけではない。(後略)(p.42)