そういう小説なのか

島本理生*1「女の子たちの対比 温かく」『毎日新聞』2021年3月21日


山内マリコ『あのこは貴族』と宮本百合子*2『伸子』について。
『あのこは貴族』って、書店の店頭でずっと気にはなっていた。「地方出身の女の子たちと裕福な東京出身者たちとの対比や出会いが鮮やかに書かれている」。こういう小説だったのか! 


慶応義塾大学に進学するために上京した美紀とその友人が、お金持ちの内部生とお茶江尾する場面がある。そこで金銭感覚の違いを目の当たりにして、友人の口から「貴族?」という単語がこぼれる。それを見て、私自身が大学に進学した春を思い出した。

私も高校までは都立だったので、私立大学に進学して初めて、まわりの子たちの生活水準が皆高い、という状況に遭遇した。母子家庭だったこともあり、授業料から生活費まで奨学金と原稿料で賄っていた私には、家庭の事情でアルバイトに明け暮れる美紀の境遇が身に染み、懐かしくもあった。
『伸子』について;

父親の渡米中、主人公の伸子は苦学生の佃と出会い、恋に落ちて結婚するが、やがて離婚する。作中では、結婚した女がただ個人でいることがなぜこれほどまで困難なのか、という伸子の葛藤が克明に書かれている。
夫の佃はなにをするにも愛する伸子が望んだからだと言い、意思決定や相互理解を拒絶するわりに、自分のことは「愛してくれる人には分からなくちゃあならない」と言い切る。佃の言動は支配的だが、一見寛大なので伸子も決断できずに「健全な意志が腐れ落ちたよう」になっていく。なぜなら彼を一人残して旅に出る伸子のほうが、一般的には我儘な女房だからだ。それに対する宮本百合子の筆力には感服する。
(略)
一方で、佃のように感情を語ったり心を開く必要も訓練もなく生きてきて、なぜ妻が離れていくのかを全く理解できない男性の混乱も、繰り返されてきたことである。性別を踏まえて性別を超えて理解するという前提がないままこの国の結婚はあることの奇妙さについて考えた。
他にも、愛情深く離れられない伸子と母親の関係など、百年近い時が流れてなお人は変わらぬものか、と気の遠くなる想いを抱いた読書だった。