「限定的目的合理的行為」

大野道夫『つぶやく現代の短歌史 1985-2021』*1の終章「「口語化」の諸局面とジェンダー、システム化、合理化の問題」。
「コンビニ」の「客としての違和感をうたった」斉藤斎藤の、


「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか」*2
という歌が提示される(p.304)。穂村弘「内なるコンビニ的圧力との戦い」という評論のタイトル、また西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』という歌集のタイトルが言及され(ibid.)、その次に言及され、詳しくコメントされるのは短歌ではなく小説。

そして村田沙耶香の『コンビニ人間*3(二〇一六)では、店員としてコンビニに完全に適応した古倉という三六歳の独身女性が描かれている。彼女は「朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった」(二二頁)というアイデンティティを自認している。
ところでM・ヴェーバーは社会的行為の類型として「目的合理*4的行為」を提示し、そのような行為をする人間は「目的、手段、附随的結果に従って自分の行為の方向を定め、目的と手段、附随的結果と目的、更に諸目的相互まで合理的に比較秤量」する、としている(「第二節 社会的行為の種類、第四項」『社会学の根本概念』一九七二、四一頁)。
そして古倉の場合は社会における「正常な人間」が行為の目的であり、その手段としてコンビニ店員(の仕事)が存在するわけである。しかし古倉の目的合理的行為は、小学校の時に男の子のケンカを止めるためにスコップで頭を殴ったこと(『コンビニ人間』一〇―一一頁)に示されように、目的(ケンカを止める)と手段(スコップで頭を殴る)、附随的結果(男子がケガをする)の「比較秤量」を著しく欠いた「限定的目的合理的行為」と言わざるをえない。しかも本人は、他の手段や起こりうる附随的結果を想像しないという自分の目的合理的行為の限定性に全く無自覚なので、自分はなるべく社会からの期待に合わせるように「合理的」な行為をしているという自己肯定感が揺るぎなく存在し続けているのである。(p.305)

一方『コンビニ人間』の古倉は、同棲をし、コンビニをやめて就活を始めたが、「私は人間である以上にコンビニ店員なんです」(一四九頁)と言い、結局はコンビニの世界へともどっていく。
(略)天吾*5たちは「別の世界」へ出発したのに対し、古倉はコンビニ店員であること自体が自己目的化してコンビニにとどまったので、古倉の方が「社会適応」している、とは言える。ただし「社会適応」という概念には社会の方が正しい、(したがって)適応しなければならない、という含意は本来ないので、既存の社会の方に問題があると考えれば天吾たちのような選択の方が肯定されるのである。(p.307)
「適応」についての註;

ある家へ嫁がれた方が「適応障害」と診断され、必ず適応しなければいけないように言われ続けていたことは、同町圧力が強い国の象徴になっているようで大変お気の毒であった。
また眠くなったり、「無気力」になったり、「病気」になったりすることは、全てを「不適応」とネガティヴに解釈するだけではなく、世界に対する受信力を弱めアイデンティティを守るというその人なりの「適応」と解釈する可能性も考えなければいけない。
特種なケースではあるが、ソルジェニーツィンは無実の罪で収容所に入れられ、次第に「無気力」になって食事の後も席をゆずらずに座り込んでしまう元海軍中佐に対して次のように言っている。

「だから今のような瞬間は(自分でも気づいていないのだろうが)、重要な瞬間なのである。つまり、口やかましい横柄な海軍士官から、気が小さくて、動作の緩慢な囚人に変貌する瞬間である。二十五年の刑期をがんばり通すためには、そういう緩慢さがどうしても必要なのだ。」
小笠原豊樹訳『イワン・デニソビッチの一日』一九七〇、九七頁)
(註9、pp.326-327)
また、「限定的目的合理的行為」についての補足的な註;

最近は「泣ける」小説、「泣ける」映画などの言葉を散聞したりもする。時間とお金をかけているのでそれに見合うだけの「コスパ」を得たいという気持ちもわからないではないが、「諸目的相互まで合理的に比較秤量」を欠いた「限定的目的合理的行為」ではいないか、と考えらえる。
(略)国語教育において「実用」が重視され「文学」が軽視される傾向もこの「限定的目的合理的行為」ではないか、と考えられる。
この問題について情報学者の西垣通は、「簡単なパズルのような問題を解く論理能力ではなく、共感したり、複雑な感情を読み取ったりする能力、背景にある文化の違いや、¥裏に隠されている意味を読み取る力は、小説などを読んで疑似体験することによって学べます。(中略)言葉で論理的に明晰に離すことも大事だが、本当の心を読み取る力は職人芸や武道にもつながる古い歴史がある」と語っている(「対談 デジタル社会の行方」「科学技術と人間」毎日新聞、二〇二一年一二月一日)。
(註8、p.326)