合理的な馬鹿?


でも、ネオリベな方々ってのは、日本に住む価値、をどこに見出しているんでしょう?ネオリベの流儀に従えば、経済的利益を最大限にする事がインセンティブであり、そのための合理的な行動が、利己的に見えようとも推奨されるはずです。そのスタイルに従えば「日本」という国の「土着性・固有性」には思い入れはなさそうです。むしろ、それら「土着性・固有性」を取り除いた「普遍性」こそが大事なんじゃないですか?グローバリゼーション、として我々が批判するのはそういったところなんですから。


であれば、日本に拘る必要性自体が無いはずじゃないですか。「規制ばかり」で「成功者をやっかんで」「税を高くしようとする」「大きな政府」の日本国など見捨てて、もっと規制のない、市場原理主義の徹底したところへ移り住んだらいいのですよ。長い時間を日本社会の変革や一般人の啓蒙に費やしたりせず、とっとと経済的成功を収める事の出来るところへ移り住む方がよほど合理的で利己的な行動といえるでしょう。ネオリベ信者のバイブル、アイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」の登場人物のように。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20091023/1256302802

コメント欄でもブクマ・コメント*1でも吹き上がっている奴が多いようだ。ただ、これって、「経済的利益を最大限にする事」を自己目的化すれば結局意味喪失に直面するという話でしょう。目的合理性の限界というか*2。要するに、「経済的利益を最大限にする事」が達成できなければ、その場所の手段的価値がなくなれば、その場所の意味はなくなってしまう。目的が不変だとしたら、手段(場所)を変えるのが〈合理的〉である筈なのに、どうして変えないの、という話では? 勿論、これは〈合理性〉が目的合理性(ウェーバー社会学の基礎概念』)だけに切り縮められており、例えば価値合理性は考慮されていないことが前提となるわけだが、シートン博士は「ネオリベ」は「経済的利益を最大限にする事」という目的合理性以外の合理性を考慮していないんじゃないかと言っているのであって、それに対する反論というのはそれ以外に考慮する合理性を挙げること以外にはないのだろうと思う。
社会学の基礎概念 (1953年) (角川文庫〈第609〉)

社会学の基礎概念 (1953年) (角川文庫〈第609〉)

勿論、目的合理性、或いは目的−手段の連鎖というのは究極的には、〈役に立つって何の訳に立つの〉という話になってしまい、意味を剥奪してしまうことになるのだが。このことについては、例えば竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく』におけるゲーム理論への執拗な批判を再読すべきだろう。また、アレントの『人間の条件』におけるworkを巡る議論とか。
ゲーム理論を読みとく (ちくま新書)

ゲーム理論を読みとく (ちくま新書)

The Human Condition

The Human Condition

アマルティア・センのいう「合理的馬鹿(rational fool)」とも関連する?
「合理的馬鹿」といえば、


Robert J. Brym & Cynthia Hamlin “Suicide Bombers: Beyond Cultural Dopes and Rational Fools” http://www.chass.utoronto.ca/soc101y/brym/BrymHamlin.pdf


というテクストを見つける。


See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060417/1145292602