「行為」(ハーバーマス)

木前利秋「行為とコミュニケーション(1)」『未来』516、2009、pp.30-37


ユルゲン・ハーバーマスの「労働と相互行為」(『イデオロギーとしての科学と技術』所収)を参照して、木前氏曰く、


(前略)同じヘーゲルといってもハーバーマスが着目するのは、『精神現象学』以後のヘーゲルではなく、『イエナ実在哲学』の構想にいそしんでいた若き日のヘーゲルである。後者の構想によれば、精神が同一性の基盤としてまず存在し、その自己反省の普遍的な運動から、言語・労働・相互行為の特殊な形態が紡ぎ出されるのではない。逆に、言語・道具・家族という異なった媒介項が弁証法的に関連しあうことで精神の概念が規定される。「詠進の相互主体性の枠組み」を可能にするのは、この異なった媒介項の弁証法的な連関であって、自己意識の経験とは、孤独な主体の自己反省というよりも、「むしろ他人の眼で自分を見ることを学ぶ相互行為の経験から派生したもの」*1なのである。
普遍的な同一の実体から特定の形態をもった行為の諸相が分化するのではなく、行為の異質な諸類型から弁証法的な行為連関が構成される(中略)わたしたちはハーバーマスの行為論におけるもっとも基本的なスタンスをここに見ることができる。行為の「同一の論理形式」がまず発見されて、そこから行為一般が分析されるのではない。最初の出発点にあるのは、言語・労働・相互行為という「異質な経験の異なったパターン」である。この基本的な構えこそ、パーソンズ流の行為論的準拠枠とハーバーマスの行為類型論を分かつのみならず、ルーマンのコミュニケーション論的な枠組みとも別れる分水嶺になるものである。ウェーバーにしてもパーソンズにしても、行為を考察するさいに、まずそもそも行為一般とは何かを論じる。(p.32)

ハーバーマスが「目的活動からコミュニケーション的行為への転換」を語るとき、これをパーソンズ流の単位行為やルーマン的なシステムの要素と同種のものの変化と解してはならない。ハーバーマスにとっての「行為」は、最初に「同一の論理形式」にしたがった行為一般やコミュニケーション一般といった単位・要素として立てられるのではなく、考察の発端においてすでに複数の基本類型として存在する点に決定的な意味がある。(後略)(pp.32-33)
次いで、「労働と相互行為」(pp.59-61)から、「目的合理的行為」と「コミュニケーション的行為」の定義の引用(p.33)。
先ず「目的合理的行為」或いは「労働」。これは「道具的行為」と「合理的選択」(or「戦略的行為」)に分かたれる;

道具的行為は、経験的知識にもとづく技術的規則にしたがっておこなわれる。その規則は、いずれの場合でも、物理的であれ社会的であれ観察可能な事象にかんする条件つきの予測を含む。その予測はあたるかはずれるかのどちらかである。他方、合理的選択は、分析的知識にもとづく戦略にしたがっておこなわれる。その戦略は、選好のルール(価値体系)や一般的な格率から導出された命題を含む。この命題は演繹の仕方が正しいかまちがっているかのどちらかである。目的合理的行為は所与の条件下で一定の目標を実現する。しかしながら、道具的行為が組織する手段は、現実を有効にコントロールできるかどうかでその当否がはかられるのにたいし、戦略的行為がオルタナティヴな行動を適切に評価できるかどうかは、価値と格率が正確かどうかだけではかられる。

他方、コミュニケーション的行為ということばでわたしが理解するのは、シンボルに媒介された相互行為である。それは強制力をもって妥当している規範にしたがうが、この規範は相互の行動期待を規定し、すくなくとも二人の行為主体によって理解され承認されなければならない。社会的規範は制裁*2にささえられて効力を得る。規範の意味は日常言語のコミュニケーションで客観化される。技術的規則や戦略の妥当性が、経験的に真であるか分析的に正しい命題に依存しているのにたいして、社会的規範の妥当性は、その意図にかんする了解の相互主観性に根拠づけられており、その強制力の普遍的な承認によって保証されている。
イデオロギーとしての技術と科学

イデオロギーとしての技術と科学

*1:イデオロギーとしての科学と技術』、p.9からの引用。

*2:原文はSanktion? もしそうなら、「制裁」という訳はいまいち。Sanctionは経済制裁のような、罰することと同時に、認めることも意味しているわけだから。