「おにぎり」から

大野道夫『つぶやく現代の短歌史 1985-2021』*1から。
2000年代に詠まれた短歌から、「おにぎり」を詠った2首が提示されている;


二度三度噛みついているおにぎりのなかなか中身の具が出てこない 穂村弘
おにぎりは前歯で食べるものとおもう濡れたる海苔に歯は触れながら 吉川宏志
(p.131)
大野氏は、なみの亜子の解釈を踏まえて、「これはやはり本書の文脈でいえば、穂村は〈おにぎり〉という素材で現代の「空虚さ」を機知*2をもってうたっているのに対し、吉川は〈おにぎり〉の「実感」をうたっている、ということができる」と述べている(ibid.)。

このように二〇〇〇年代において、作者は、私に対する過剰な幻想は基本的に持っていない。(略)身近な私の「かけがえなさ」、つまり「かけがえのない私」をうたっている、ということができる。(p.132)

また二〇〇〇年代の、特に前半は戦後非行の第四のピークでもあった。そして影山任佐は、かつての非行は物的欠乏を背景としたやむにやまれぬ非行であったが、この時代の非行は、ネットで予告をする犯罪などに示されるような、空虚な自己を満たしていきたいという自己確認型非行である、としている(「少年の凶悪犯罪連鎖」毎日新聞、二〇〇〇年五月一八日夕刊)。
この空虚な自己の確認という問題は、短歌の詠み、読みにも関係している。つまり現代短歌における作者―読者の関係も、家族や地域などの絆が弱まるなかで稀薄な自己を口語でうたうことによって確認し、直喩などの分かりやすい修辞によって身近と考えられる読者の側もリフレインなどの分かりやすい修辞の短歌を読み、機知などを楽しみながら身近に感じられる作者と繋がっていきたいという要求が背後にあるのではないか、と考えらえるのである。(p.146)

このように「失われた二〇年」といわれる時代において(略)歌人は自分に過剰な幻想は持たず、ふつうに存在している「かけがえのない私」をうたっている。
Z・バウマン*3によれば、現代社会は近代の液体的な段階であり、「液状化した社会」である。そしてそのような「液状化した社会」の中で人々は、社会に「根」を下ろす、あるいは逆にそこから「根絶」される、というような関係ではなくなり、ある港に錨を下ろして「承認」してもらい、また錨を上げて出港し、次の港に錨を下ろして「承認」を受ける、というような関係になる、としている(「5 共同体 クローク型共同体」森田典正訳『リキッド・モダニティ』二〇〇一)。
このように現代社会は、人々が個人化、液状化し、「私(アイデンティティ)」が不安定になった社会、と考えることができる。そしてそのようななかで歌人は身近な実感などを大切にし、「かけがえのない私」をうたおうとしていたのである。(p.147)