「同じ」ではない、やはり

matsudama*1「意志はお金のようなものかもしれんな」https://matsudama.hatenablog.com/entry/2021/05/11/214441


「同じ」ではない。


われわれは1000円札や500円玉をお金として使っていて、実際にお金は存在しているように思えるが、その1000円札や500円玉は紙であり鉄にすぎない。


1000円や500円というのは、あくまでわれわれが信じ込んでいる幻想を紙や鉄に投影しているだけにすぎない。

「われわれ」が「投影」しているとされる「幻想」は価値であって、その価値(「お金」のリアリティ)は、私たちが日々「お金」を使って自らの欲望を実現しているという実践経験を通して維持・強化されている。また、「お金」のリアリティを決定するのは第一義的には「お金」を使う側でも、「お金」を通貨として発行する銀行や政府でもない。それは「お金」を受け取る側だ。「お金」を払っても受け取ってくれなければ、その紙や金属や電子データは「お金」として存在しているとはもはや言えなくなる。もっと詳しい話は、岩井克人貨幣論*2とかを読んでいただくとして、「意志」に移る。
「意志というのもこれと同じで、われわれの行為に対して「意志という幻想」をただ投影しているだけにすぎないのかもしれない」という。「意志」は「行為」ではなく、「行為」の要因のひとつとして想定され得る或る種の内面的状態ということだろう。因みに、私にとっては、「行為」(action)というのは「意志」をそもそも含み込んでいるもので、「意志」に全く着目しない場合には「行為」とは呼ばず、行動(behavior)とか振る舞い(conduct)と呼ぶことになる。それはともかくとして、行為或いは行動の要因(のひとつ)として、「意志」を想定するかしないのか、想定して「意志」が存在し始めるのかどうかは、基本的に私の内部で完結する。他者の承諾や拒絶にその存在を決定されてしまう「お金」とはやはり違う。私の外側か内側かという問題。
貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)