植原亮氏曰く、
陰謀論は有神論の変形した素朴な世界観というのがカール・ポパーの見解で、神のごとき全能の行為者(god-like omnipotent agents)を想定しがち、とはしばしばいわれることですね、まさに。 https://t.co/I6xYsvNb4p
— 植原亮 (@ryoueharaS2) 2021年7月18日
2005年に
と書いたとき*1、このカール・ポパー*2の論は(不勉強なので)知らなかった(汗)。
さて、私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。「陰謀理論」というのは、〈主体性〉の崇拝であり、その限りでは〈ヒューマニスティック〉であるといえよう。或いは浪漫主義的ということだろうか。そういえば、浪漫主義の時代というのは、〈天才〉という個人的な〈主体〉とともに例えばネーションというような集合的な〈主体〉が構築された時代でもある。「陰謀理論」のもう一つの機能というのは、主観的というか想像的な〈勝利〉をもたらすということである。「陰謀理論」を唱える人・信じる人にとって、(所謂エリートも含めて)世人はオムニポテントな「陰謀」の〈主体〉によって欺かれており、自分はといえば、「陰謀」によって世の中を好き勝手に操作する力能はないけれども、少なくとも「陰謀」に気付き、それを見抜いているということになる。何かしらロマンティック・アイロニーに似ていなくもない、この〈勝利〉によって傷つけられた〈主体性〉は幾分か癒されるというわけだ。
*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050904 Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070930/1191131395 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080125/1201204697 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090729/1248840543 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20091203/1259772205 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110426/1303840125 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170921/1505970102 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180613/1528907424 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/07/03/102406
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20050716 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061230/1167454140 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20081224/1230115391 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20111203/1322895817