フィクションであってフィクションでない

大野道夫『つぶやく現代の短歌史 1985-2021 「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』*1では、「わたくしせい」というルビが振られる「私性」という言葉がひとつの鍵言葉になっている。これは具体的には、短歌の作中の「私」などの一人称の指示対象のあり方、詠者との関係のことであるようだ。
俵万智を巡って曰く、


また俵の作品の私性は、前衛短歌のような「私」(作者)≠〈私〉(作中の私)ではないが、近代短歌の写生の「私」(作者)=〈私〉(作中の私)でもなく、いわば「私」(作者)≒〈私〉(作中の私=作中主体)のような私性を展開させていった。たとえば「八月の朝」の選考座談会では、「かなりフィクションだと思うね」(篠弘)、「ところどころそれが見えるものね。それでいいんです」(岡井隆)という発言がみられる(「短歌」一九八六年六月)。そしてのちに俵が『チョコレート革命』でフリンを詠んだときも、歌壇でそれが事実であるかどうかはそれほど話題にならなかったのである。(p.46)
また、大野氏は短歌における「私」の特性をそれぞれの時代を語るための鍵言葉ともしている。例えば、1980年代の「ライトな私」、1990年代の「わがままな私」、2000年代の「かけがいのない私」、2010年代の「つぶやく私」。

(前略)俵万智のの登場は修辞*2の「口語化」、そしてかるい主題*3への市民権、私性の「私」(作者)≒〈私〉(作中主体)への変化という「口語化」において、ライトヴァースと呼ばれた「ライトな私」が生まれた現代短歌の出発点であった。
ところで俵の登場は、特にその前の時代の前衛短歌の否定などの主張はともなわず、運動にもならなかった。それは個人的には俵の温和な性格により、また角川短歌賞の次席、受賞による歌壇に認められての登場だったので、正岡子規のように意識的に既存の歌を否定する必然性がなかったことによる。
またさらに、俳句界と比べて短歌界は前衛短歌が影響力を持ち続けたが、それが基本的に新しい動向に寛容であったので、前の時代の短歌と対立することなく新しい時代へ展開していった、ということができる。
D・ヤンケロビッチは、国や会社などの自分の外側の価値へ向かって努力する自己犠牲的な価値観から、個人的興味を追求し、自分を大事にする自己充足的価値観への変化を指摘している(『ニュールール』一九八二)。これを歌の世界に当てはめてみると、やはり俵万智のライトヴァースは自己充足的価値観ということができる。それに対して俵の所属している竹柏会「心の花」を創立した佐佐木信綱(一八七二~一九六三)は、歌の道に人生を捧げて生きた自己犠牲的価値観、ということができる。(pp.48-49)
ところで、「自己充足的」(consummatory)と通常対立するのは手段的/道具的(instrumental)である。

ところで、「私性」の問題は〈設定としての私〉ということにも通じている。大野氏は最初に引用した部分への註として、次のように述べている;


なお、一九八〇年代後半の私性に関する問題としては、ある女性が新人賞を受賞し、写真も公開され、留学中ということで受賞式にはその叔父と称する男性が出席した。しかしのちに、その男性が作者であることが指摘されたのである(たとえば、菊地裕「佐村河内問題/付加価値とは何か?」「中部短歌」二〇一四年四月、二二頁、特集「二〇一四年歌壇展望座談会」「短歌年鑑 二〇一五年版」短歌研究社、一九頁などを参照)。
なお筆者(大野)はこの授賞式に出席してこの男性とも言葉を交わしたが、彼女は性格が良くてなどと語り、特に作者は自分であるという言動はなかった。(p.53)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/10/11/160228

*2:「ことば」というルビ。

*3:「こころ」というルビ。