「崩壊」と「わがまま」

大野道夫『つぶやく現代の短歌史 1985-2021』*1で、1990年代の「時代背景」として先ず第一に挙げられているのは「バブル崩壊」である;


一九九〇年代の時代背景は、やはりバブル経済の崩壊であろう。金融引き締め政策により株価、地価が急落してバブル経済が崩壊し、社会は長期的な不況となった。「ライトヴァース」のような「明るい・かるい」歌は、もはや手放しではうたえなくなっていったのである。(p,94)
そのほかに、「阪神・淡路大震災」、「オウム真理教事件」、「平成の大合併」、「非自民政権」(細川政権)、「自民・社会・さきがけ政権」(村山政権)、「女子高生の援助交際」や酒鬼薔薇聖斗事件など(pp.94-95)。

この時代の短歌の傾向を、穂村弘*2は〈わがまま〉と表現している。穂村は、坂井修一*3が現在の短歌の特徴を「明るいニヒリズム」と言っているのを紹介しつつ、穂村自身、そして井辻朱美早坂類東直子*4などの歌は共同体的な感性よりも個人の体感、世界観にもとづいており、憧れや愛の感覚は強いがあくまでも一人の信仰であり〈わがまま〉であるとし(「《わがまま》について」)、「わがままな私」の存在を示している。
そして吉川宏志は、共同体的感性が通じなくなった原因として、一人一人の家族、職業などの生活感情が異なってしまったことと、都市化による自然の破壊をあげている(「座談会」「ぼくらで『新しき短歌の規定』をしてみよう」「短歌」一九九九年一月、一四七、一四八頁)。
さらに、穂村は、「私は短歌の進化論を信じておらず、この詩型に様々な新しい表現要素が付加されて総体として前へ進んで行くというヴィジョンを持つことができない」とし、「ひとつの歌と出逢うことはひとつの魂との出逢いであり」、「その継承は時空間を超えた飛び火のようなかたちでしかあり得ない」としている(「《わがまま》について」)。
この穂村の一連の発言については、この時代の短歌の特徴を〈わがまま〉ととらえたのは卓見であり、特に同世代以下の多くの歌人に影響を与えた。また確かに何が「短歌の進化」かは一概に言えないし、歌との出逢いは「魂の出逢い」であり、短歌は「自分専用の呪文」という穂村の主張も、作者の実感としては理解することができる。(略)
(略)この穂村の〈わがまま〉という発言自体、U・ベックが分析している家族や職業の動揺による社会の「個人化」の進行として説明することができ、やはり社会現象としてある歴史的文脈の中で生じた、ということができる。(pp.95-97)
ベックについての註;

U・ベックは「産業化された近代の生活と思想が準拠している座標系――その座標軸は家族と職業であり科学と進歩への信仰である――は動揺」(東簾・伊藤美登里訳『危険社会』*5一九九八、一七頁)しはじめており、現代はさまざまなリスクが出現してきている「危険社会」である、と論じている。そして個人化が進行し、たとえば階級や家族から「解放」された個人が労働市場へ放り出されて、「あらゆる危険*6やチャンスや矛盾に満たされた労働市場における自分個人の運命に、注意を向けられるようしむけられた」(同、一三八頁)としている。(p.101)
なお、大野氏は穂村氏の「わがまま」論に対して、「穂村は俵*7も〈わがまま〉にふくめているが、一九八〇年代のライトヴァースの俵と、一九九〇年代に言及された〈わがまま〉とは異なる、と本書は考えている」と限定を加えている(註17、ibid.)。