内田樹「不快という貨幣」http://blog.tatsuru.com/archives/001572.php
中野昌宏「若者の静かな憤怒」http://nakano.main.jp/blog/archives/2006/02/post_51.html
それぞれ深く考えさせられるテクストである。
問題は、中野氏が
と書いているような、未来指向のplausibilityが低下したことである。現在の苦労、若しくは現在に於ける欲望の充足の断念が未来に於いて利子つきで償還されない限り、誰が現在に於いて面白くもない勉強や労働をするというのだろう。だから、ある前提の下では、ポスト高度経済成長時代に於いて、勉学意欲や労働意欲が低下するというのは理の当然である。「ある前提」と書いた。これは目的合理性だけを考慮して価値合理性を考慮しないこと。或いは、人間の行為を手段的行為に還元し、自足的な行為を考慮に入れないことである。但し、一時私自身も入れ込んでいたことがあったが、所謂消費社会を巡る言説では、目的合理性や手段的行為が退いた後には、価値合理性や自足的行為のために場所が空けられる筈だった。これは時間論的に言えば、たかだか未来のための手段に貶められていた現在の解放、現在の留保なき肯定であるべきだった。しかし、現在の留保なき肯定なんてあるのだろうか。どうもそのようには思えない。バブル期と較べて、寧ろ反動的に未来指向というのは強化されているのではないか。〈自分探し〉という空虚な未来指向であれ、時間的スパンを思い切り短期化したせせこましい目的合理性であれ。
昔私らが学校へいやいや行ったり,受験勉強をしたりしたときには,「努力は報われる」ということがさかんに言われた。し(sic.),半信半疑であれ,われわれもちょっとは信じていた。で,ちょっとそのとおりになることもあった。よい学校に入れればよい大学に入れ,よい大学に入れればよい会社に入れ,よい会社に入れればよい収入が得られる時代だった。おおむね。こういう時代には,「いまの苦労は,将来の自分のための投資」と考えられていた。
それを考えるために、内田氏のテクストはヒントを与えてくれる。但し、内田氏は「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」というが、「学び」からの「逃走」はともかく「労働」からの「逃走」は事実としては怪しいということは既に実証されている。寧ろ私の疑問は何故「労働」からもっと「逃走」しないのかということである。とはいえ、内田氏のいう「不快という貨幣」というアイディアを借用すれば、多くの人が面白くもなく、ペイも悪く、招来の保証も不確かな「労働」から「逃走」せずに留まっているのかということを説明できるような気がする。日々「面白くもなく、ペイも悪く、招来の保証も不確かな「労働」」に耐えることは、その人たちにとって、「不快という貨幣」を貯蓄することなのだ。そう考えると納得はできる。ただ、貨幣というのは支払うためにある。買い物もできない貨幣をふつうは貯めようとは思わない。蘇聯が滅びたのだって、人々が碌な買い物もできない〈ルーブル〉に愛想を尽かしたという側面はある。「不快という貨幣」は支払うことはできるのだろうか。それでどんな買い物ができるというのだろうか。その意味では、貨幣の蓄積自体が自己目的化されている、つまり自足的な行為になっているともいえる。でも、消費もされず、また投資もされないで、ひたすら蓄積されていくだけの貨幣ってなんなんだろうか。中野氏が
「希望格差」じゃないけれど,「いま苦労して,その苦労が何になる」という意識が,彼らの心の奥底にはあるんじゃないだろうか。言い換えれば,苦労ばかりを強いられている(と少なくとも主観的に感じている)人々は,「いまの苦労」を「いま」取り返すべき,債権者の位置に立っている(つもりな)のではないか。
なるほど。だからヤクザっぽくなってくるのね(殴)。フランスでの暴動も思い出されるし。希望がないから自棄(やけ)のヤンパチなのか。
と書いていることの前提には、もしかしてこの「不快という貨幣」の消費不可能性があるのではないか。とはいっても、即時の払い戻しを要求してキレるのは一部であって、大方はマゾヒスティックに「不快という貨幣」の蓄積に励んでいるのだろう。
かつては将来償還できるはずの「投資」であった「苦役」が,いまや返してもらえるかどうか不明な「苦役」となった。いつ返してくれるんや。はよ返さんかい。いますぐ返せゴルァ。そういうオーラを彼らがるる放出していたとしても,彼らの非にあたるのかどうか。「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。
これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。
未来がない,ということはそういうことである。
ということはこれは「終末」?
「不快という貨幣」がどうせ使えないもの、支払い能力がないものだったら、そんなものは捨ててしまえばいいのである。「未来がない」とはいっても、そこには現在が開かれる筈である。
かつて『逃走論』という書物が出版されたときよりも時代が後退していることは確かだ。嗚呼。