フランクリンとピューリタニズム

小檜山ルイ*1「現代に与える多くのヒント」『本のひろば』(キリスト教文書センター)771、pp.12-13、2022


梅津順一*2ヴェーバーとフランクリン』の書評。


本書は、マックス・ウェーバーが有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*3においてフランクリンに「資本主義の精神」の典型を見たことに着想を得て、通常は啓蒙主義の申し子とされるフランクリン*4の宗教的側面に光を当てる。第一部は、フランクリンのピューリタン的出自を父の世代から説き起こし、理神論に傾斜した若き時代を経て、道徳の実践という形での信仰生活に至った道程が描かれる。第二部は、印刷所経営者としてのフランクリンが、禁欲的生活態度を獲得する上で、ピューリタン的自省習慣を採用したことなどが紹介され、その禁欲主義と職業観の宗教性が論じられる。また、彼の経済構想が、中産層の利益を重視していたことを論じ、ヴェーバーが資本主義発生時の担い手として中産層を特定したことに重ね合わせる。第三部は、社会企業家、政治家としてのフランクリンを扱い、その「公共善」への志向がピューリタニズムの伝統から引き出されたことを明らかにする。大学設置など、アメリカ植民地で通常宗教的企画として立ち上がったものが、ペンシルヴァニアでは市民的企画として立ち上がり、その中心にフランクリンがいたといった指摘は、なるほど、と思わせる説得力がある。著者は、フランクリンのキリスト教の中に、後にロバート・ベラが構築したアメリカの「市民宗教」の萌芽を見て、本書を終えている。(pp.12-13)
Beyond Belief

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ヴェーバーとフランクリンの専門家ではない筆者は、この二人の著名人、また前者の「倫理論文」をめぐる長い研究を踏まえて本書に向き合うことはできないのだが、『フランクリン自伝』の読み直しとして多くの示唆を得た。一七八〇年代以降の建国期に共和国市民の属性として「公徳心(virtue)」の必要が盛んに議論された。その起源は通常古代ギリシャ・ローマの共和制におけるvirtus(男らしさを含意)に求められる。筆者はそれが、第二次大覚醒を通じ、キリスト教道徳と接合され、また、女性化されたと考えてきたが、フランクリンにおいては、すでに公徳心はピューリタニズム的公共善と接合されていた可能性を教えられた。(p.13)

蛇足。フランクリンのキリスト教への接近の仕方は御儒者中村正直のそれ、社会起業家としての生き方は今度一万円札になる渋沢栄一のそれを想わせる。日本でフランクリンを知る学生は今日ほとんどいないが、もっと学ばれて良い人物である。(ibid.)

ところで、私がこれまで読んできたウェーバー或いは『プロ倫』の入門書や解説書の類では、ベンジャミン・フランクリンと「プロテスタンティズム」或いは「ピューリタニズム」との関係は、説明するまでもない自明な事柄として扱われており、何時もこのことに苛立っていた。一昨年ウェーバー100年忌ということで、一気に新書のウェーバー本が上梓された。今野元『マックス・ヴェーバー』、野口雅弘『マックス・ウェーバー』、中野敏男『ヴェーバー入門』。これらもフランクリンと「ピューリタニズム」に関しては例外ではなかった。