アメリカ、プロレタリア、プラグマティズム(メモ)

承前*1

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

ジル・ドゥルーズバートルビー、または決まり文句」(『批評と臨床』、pp.146-189)からの抜き書き。このテクストはハーマン・メルヴィルについて論じたもの。


(前略)メルヴィルの描く独身者バートルビーは、カフカの作品の独身者と同様、「自分が散歩する場所」、つまりアメリカを見出さなければならない。アメリカ人とは、イギリスの父親的機能から解放された者であり、砕かれた父親を持つ息子、あらゆる国民にとっての息子だ。すでに独立前に、アメリカ人は国家の複合体、アメリカ人の使命と両立しうる国家形態を考えていた。ただし、アメリカ人の使命とは、「昔ながらの国家機密」を、つまり国民だとか、家族だとか、遺産だとか、父親だとかを再構築することではなく、なによりも世界を、兄弟の社会を、人間と財の連邦を、アナーキストとしての個人から成る共同体を構築することであり、それはジェファーソンやソローやメルヴィルによって植え付けられた使命である。『白鯨』に出てくる宣言(第二十六章)もまた然りだ。もし人間が他の人間の兄弟であり、「信頼」に足るとすれば、それはその人がある国家に属しているからでも、地主だったり株主だったりするからでもなく、たんに〈人間〉としての話であり、ただ、その人が「暴力」や「愚かさ」や「卑劣さ」といった特徴を失うとき、つまり、いかなる特性も不安や哀れみを引き起こす屈辱的な汚点にすぎないとする「民主的尊厳」の特徴線(trait)のもとにおいてしか自己意識をもたないときの話なのだ。アメリカとは特性なき人間、独創的〈人間〉の可能性である。(pp.177-178)
Moby Dick

Moby Dick


十九世紀におけるプロレタリアの描写はそうしたものだった。所有財産もなく、家族もなく、国家もなく、人間であること、たんなる人間であるということ以外に規定をもたぬ以上、それはコミュニストの人間の到来ないし同志の社会であり、未来のソヴィエトだった。だがそれは、資質こそ異なれ、アメリカの描写でもあり、両者の特徴線はしばしば混ざったり、重なったりする。アメリカはある革命を起こそうとしていたのであり、その原動力となるはずだったのは世界中の移民、あらゆる国からやってくる移住者であったが、同様に、ロシアのボルシェビキも革命を起こそうとするのであり、その原動力となるべきは世界のプロレタリア化、「万国のプロレタリア」なのである……。これは階級闘争の二つの形態だ。それゆえ、十九世紀のメシア思想には二つの顔があり、アメリカのプラグマティズム、結局はロシアで実現される社会主義、この双方において自己表現が行われる。(pp.179-180)

アメリカ人の作った簡略な哲学理論としか見ないでいるかぎり、プラグマティズムは理解できない。逆に、世界を変え、みずからを形成するものとしての新しい世界、新しい人間を思考するための試みの一つをプラグマティズムのうちに見出すなら、アメリカ思想の新しさが理解できるだろう。西洋哲学は頭、あるいは父性的〈精神〉であり、それは全体性としての世界のうちに、そして所有者としての認識する主体のうちに実現されていた。(中略)アメリカの超越主義(エマーソン、ソロー)の時代に生きたメルヴィルは、早くもプラグマティズムの特徴線を描き、それをさらに延長する。まず最初に行われるのは、過程にある世界、群島としての世界の肯定だ。ピースどうしを合わせて全体ができあがるようなパズルでさえなく、むしろ、セメントで固められていない石の壁のようなものであり、その個々の要素はそれ自体で価値を持つが、それでいて他の要素との関係でも価値を持つ。孤立集団で、かつ流動的関係、島で、かつ島どうしのあいだ、動点で、かつ蛇行線となるが、それというのも、〈真実〉にはつねに「虫食いだらけの縁」があるからだ。頭でなく、脊椎素、脊髄である。画一的な服ではなく、たとえば白地に白の模様でもいいから、アルルカンのコートであり、レッドバーン*2上着、白いジャケット*3、〔『信用詐欺師』の〕偉大な世界主義者のように、どこまでも続き、複数の接続が可能なパッチワークだ。これこそがすぐれてアメリカ的な発明であるのだが、それは、スイス人が鳩時計を発明したのと同じ意味で、アメリカ人がパッチワークを発明したからだ。しかしそのためには、認識する主体、唯一の所有者が、探検家の共同体、まさしく群れの兄弟たちに席を譲り、兄弟たちは認識を信仰で、というよりもむしろ、「信頼」で置き換えなければならない。もう一つ別の世界への信頼ではなく、この世界への、そして神にたいしても人間にたいしてもいだく信頼である(「わたしは、信心ではなく、希望によってオフォを昇ろうと試みる……。わたしはわたし自身の身を行くだろう……」)。(pp.180-181)

プラグマティズムとは、群島と希望のこの二重の原則である。真実が可能となるには、人間の共同体はいかなるものであるべきか? 真実[truth]と信頼[trust]。プラグマティズムは、すでにメルヴィルが行なったように、二つの前線で闘いを続行するだろう。すなわち、人間を人間に対立させ、癒しがたき不信感を養う特性に対する闘い。だが同時に、〈普遍〉ないし〈全体〉、つまり偉大な愛や慈悲の名のもとにおける魂の融合に対する闘いだ。しかしながら、特性にはもはやしがみつけぬなら、魂には何が残るのであろうか、そのときには、魂が一つの全体へと融合するのを妨げるのは何なのだろうか? 魂にはまさにその「独創性」が残るのだが、それは個々の魂が言語の限界におけるリトルネロのことくにもたらしてくる音、しかも魂がその肉体とともに道(あるいは海)を進みだすときにのみ、みずからの救済を求めずに人生を送るとき、特別の目的なしに肉体ともどもその旅をはじめ、そして別の旅人に出会い、その旅人を音で認識するときにのみもたらしてくる音だ。ロレンスは、それこそが新たなメシア思想、アメリカ文学の民主的な寄与だと語っていた。救済や慈悲といったヨーロッパの道徳に抗する生の道徳であり、その道徳において魂は、他の目的もなく、ただ進み出すのでなければ自己達成をできないが、その際、あらゆる接触に身をさらし、他の魂を救おうなどとは決してせず、あまりにも権威的だったり、あまりにも悲しげだったりする音を出している魂からは身をそらし、断固としたところのない、束の間のものでさえある親和を対等の相手と形成し、自由以外の達成はなく、自己達成のためにはみずからを解放する用意をつねに整えているのである。メルヴィルあるいはロレンスのいう友愛、それは独創的魂にかかわる事柄だ。もしかするとそれは父ないし神の死によってしか可能にならないのかもしれないが、それによって生じてくるわけではなく、まったく別の問題だ――「無数の魂の繊細な共感、最も辛辣な憎しみからも、最も情熱的な愛情からも得られる共感」。(pp.181-182)

(前略)移民の世界化も、プロレタリアの世界化同様、成功しなかった。南北戦争がまず弔鐘を鳴らし、やがてソヴィエトの粛清がそれに続くだろう。国民の創生、国家=国民の再興が行なわれ、恐るべき父親たちが駆け足で戻り、その一方、父親なき子供たちがまた死んでいくようになる。紙くずのごときイメージ、それがアメリカ人の運命であり、プロレタリアの運命でもある。だが、大勢のボルシェビキが、一九一七年以来、悪魔的な権力によって叩かれる扉の音を耳にしたように、プラグマティズムの実践者たち、そしてすでにメルヴィルも、兄弟社会を巻き込んでいく仮装行列の到来を眼にしていた。ロレンスよりもずいぶんと前に、メルヴィルとソローはアメリカの病い、つまり、壁を復旧させる新たなセメント、父親の権威、下劣な慈悲を見立てていた。だからこそ、バートルビーは監獄で死んでいくのだ。そもそもの最初はベンジャミン・フランクリンで、この偽善的な「避雷針売りの男」がアメリカの魅惑的監獄を設立した。(後略)(pp.183-184)
今だらだらと引用したドゥルーズの論の前提として、「独創人」(p.173ff.)と「独身者」(p.176)という概念に言及しなければならないが、これは次回。
「どこまでも続き、複数の接続が可能なパッチワーク」――「パッチワーク」(キルト)についての考察として、Elaine Showalter “Piecing and Writing”(in Nancy K. Miller [ed.] The Poetics of Gender, Columbia University Press, 1986, pp.222-247)を取り敢えずマークしておく。米国の家族、特に「父親」についての批判的考察としては、桜井哲夫アメリカの子どもたち――対抗文化のひとつの起源」(『思想としての六〇年代』、pp.209-224)。
The Poetics of Gender (Gender and Culture)

The Poetics of Gender (Gender and Culture)

思想としての60年代 (ちくま学芸文庫)

思想としての60年代 (ちくま学芸文庫)