前のめりの果て

辛酸なめ子さんが見た選挙「その時まで日本があれば…」募る不安」https://withnews.jp/article/f0171019000qq000000000000000G00110101qq000016075A


辛酸なめ子さん*1曰く、


将来には、漠然とした不安が立ち込めています。先日、20代、30代の女性と話していて、10年後も今の仕事を続けていきたいかという話になりました。思わず「その時まで日本があれば……」と答えたら、「将来、見えないですよね」と若い女性たちに同意されました。フリーで働いている人はその時に応じて、仕事が終わったり、また依頼が来たりしますが、安定的なはずの就職をしている人も、終身雇用という考えがなくなりつつあるので油断できません。

欧米のように自分をスキルアップしてキャリアを変えていく、という方向になっています。一見華やかですが、戦い続ける戦士のような人生です。ライバルとしてAIが台頭してくるかもしれないし、いつ仕事がなくなるかわかりません。一部の、向上心にあふれて体力のある人だけが勝ち残り、格差が広がっていくのでしょうか。うわべだけでも成功している体を装いたい人は、ますますインスタ映えを目指していくのかもしれません(そしてそれをやっかむ人がSNSを炎上させ、さらに窮屈な監視社会に……)。

 さらに、女性は活躍しろとか、出生率を上げろとか、国からのプレッシャーもあります。朝日新聞が「わたしの未来」をテーマに読者から募集した投書にも、活躍して出産して保育の環境は自分で何とかしろなんて、勝手が過ぎる、という20代女子大学生の意見があり、共感しました。


「『私、本当にこの国で働きながら出産・子育てできるの?』というのが心境。少子化で『もっと産んで』と言われながら、同時に『女性活躍、外でも働け』、しかし『保育の環境は自分で』。勝手が過ぎます」(東京都・20代女子大学生)
出典:「その一票、いらないなら私に」 若い世代、考える未来:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASKBD4H5FKBDUPQJ006.html

最近、世の中の風潮がまた保守的になっているので、個性が強いと生きづらくなってしまっています。周りの目を気にして歩調を合わせ、少しでもはみ出したり目立つことをしたりすると、バッシングされる世の中になりつつあるのでしょう。メディア関係の人と話していると「昔はこんなことで炎上しなかった」と遠い目になったりして、年寄りのぼやきという一面もあるかもしれませんが、実際に昔の方がのどかでした。やはり先行き不安な人が多くなり、精神的な余裕がなくなってしまったのでしょうか。自分の内面をまず穏やかにして、その平和な波動が外界に放射され、外の世界も変化していく、というのが理想です。

 とはいえ、老後のことを考えるとどうしても不安になってしまいます。10月16日の朝日新聞に掲載された「わたしの未来」のアンケートの途中経過を見ると、自分の暮らしに満足している人が過半数という結果でした。でもそれが30代、40代になると前述のように不安が増大し、私のようにお守りや神社仏閣などスピリチュアルに頼る女性も少なくありません。国が頼りにならないので神様に頼る、というとプリミティブですが……。

さて、私たち、特に近代人たる私たちの「時間」の基本は「前のめり」である。鷲田清一先生の『老いの空白』*2に曰く、

現代の企業での仕事を見ていると、この「プロ」(前に、先に)という言葉が一貫してその作業に用いられているのにおどろく。たとえばあるプロジェクトを立ち上げる。そのためにはあらかじめプロフィット(利潤)のプロスペクト(見込み)を検討しておかなければならない。見込みがあればプログラム作りに入る。そしてプロデュース(生産)にとりかかる。支払いはプロミッソリー・ノート(約束手形)で受ける。こうしたプロジェクトが成功裡に終われば、つまり企業としてのプログレス(前進)にうまく結びつけば、あとはプロモート(昇進)が待っているだけだ。できすぎと言っていいくらい、「プロ」のオンパレードだ。プロジェクト、プロフィット、プロスペクト、プログラム、プロデュース、プロミス、プログレス、プロモーション……。これら「プロ」を接頭辞とする言葉は、ラテン語もしくはギリシャ語の語源をたどれば、それぞれ、前に投げる、前方に作る、先に描く、前方に引っぱる、前方に置く、前に進む、前に動くという意味だ。これらは、未来の決済を前提に現在の取引がおこなわれる、あるいは決済(プロジェクトの実現や利益の回収)を前提にいまの行動を決めるという産業社会の論理を表わすものであり、また個人の同一性とその正当化の根拠は個人の出自ではなく、彼が将来に何をなし、何を達成するかにかかっていると考える近代市民社会の論理をも表わしている。
こういう前のめりの姿勢が、知的もしくは物的生産性の累進的増大をめざす近代社会を貫いている。ついでに言っておけば、こういう「プロ」の意識は、「勤勉」のエートスと深いつながりがある。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*3は、「時は金なり」というベンジャミン・フランクリンの言葉のなかに「自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」を読みとったが、そのフランクリンよりもさらに一世紀前、ジョン・ロックは『市民政府論』*4のなかで、神によって与えられたこの身体の作業をつうじて新しい価値と富とを創造すべく命じられているという要請について述べていた。つまり、「怠惰で無分別」(lazy and inconsiderate)であるのではなく「合理的で勤勉」(rational and industrious)であれという要請が、「勤労」(industry)の精神、ヴェーバーが指摘したあの資本主義のエートスとしての「勤労」の精神へと、転位したというのである。合理性と勤勉はこうして能率性と累進制へと収斂してゆく。そしてその「勤労度の差」(diffetent degrees of industry)」によって各人の財の不釣りあいも生じてくるのであるから、結果として所有量の不平等も是認されることになる。そしてそういう個人的所有を、維持・保存するのではなく、むしろみずから無制限に増大させる権利を獲得し、たがいに保全しあうためにこそ社会は存在すべきであると、ロックは考えたのだった。(pp.64-66)
老いの空白 (岩波現代文庫)

老いの空白 (岩波現代文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

辛酸なめ子さんが語っているのは、「前のめり」しようとしても「前」が不透明、或いは行く手を阻む壁が感じられる、しかし「前のめり」した身体を起してみることも難しい状況ということだろう。それはもしかして、戦後の高度成長や1960年代の左翼運動が行き詰まり、総体的(相対的)な右傾化の中で、爆弾テロや内ゲバ戦争が続発した1970年代と似ているのかも知れない*5。或いは、五島勉*6が「ノストラダムス」をブレイクさせた70年代。