前のめり物質

養老孟司*1「欲することに別れを告げて幸福を得る」『毎日新聞』2020年10月17日


ダニエル・Z・リーバーマン&マイケル・E・ロング『もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』という本の書評。
少し切り取ってみる;


私事ではあるが、評者はこの種の化学物質による脳機能の説明を苦手としてきた。欲求や快楽のような典型的に「主観」と呼ばれる世界と、脳という物質系との関連がどうしても直観的につながらなかったからである。このことは意識という機能が物質科学から説明できないことと根本的イ関係している。同じ脳の機能でも、論理なら話は別である。神経細胞の電気的活動の基本はオン・オフであり、これはコンピュータで外部的なシミュレーションが可能である。だからその結果は現在AIに結実している。個々の神経細胞のオン・オフは次の神経細胞ドーパミンのような神経伝達物質によって伝えられる。しかしコンピュータの中にドーパミンを入れても、快楽と欲求のシミュレーションはできないであろう。ドーパミンのような化学物質を中心にして論じると、こうした化学物質自体に特殊な機能があるように錯覚されることがある。そうではなくて、ドーパミンが重要な要素としてたまたま機能するようなシステムが存在することが中心の問題なのであって、そのシステムは非常に長い進化の過程を経て成立した脳という複雑で微妙な回路系の中に位置している。問題はこの回路系にあってドーパミン自体にあるわけではない。
さて、「ドーパミン*2は「快楽物質」ではない。「報酬刺激」ではなく「報酬の予測」に反応する「期待物質」である。「未来志向」。既に獲得しているものを享受する「現在志向」の「神経伝達物質」として、「セロトニン」「オキントシン」「エンドルフィン」「エンドカナビノイド」があるという。
ドーパミン」は謂わば前のめりの物質で、それ故に近代という時代に対する適合性が高い物質であるといえる。鷲田清一先生によれば、近代とは「前のめり」の時代である。『老いの空白』に曰く、

現代の企業での仕事を見ていると、この「プロ」(前に、先に)という言葉が一貫してその作業に用いられているのにおどろく。たとえばあるプロジェクトを立ち上げる。そのためにはあらかじめプロフィット(利潤)のプロスペクト(見込み)を検討しておかなければならない。見込みがあればプログラム作りに入る。そしてプロデュース(生産)にとりかかる。支払いはプロミッソリー・ノート(約束手形)で受ける。こうしたプロジェクトが成功裡に終われば、つまり企業としてのプログレス(前進)にうまく結びつけば、あとはプロモート(昇進)が待っているだけだ。できすぎと言っていいくらい、「プロ」のオンパレードだ。プロジェクト、プロフィット、プロスペクト、プログラム、プロデュース、プロミス、プログレス、プロモーション……。これら「プロ」を接頭辞とする言葉は、ラテン語もしくはギリシャ語の語源をたどれば、それぞれ、前に投げる、前方に作る、先に描く、前方に引っぱる、前方に置く、前に進む、前に動くという意味だ。これらは、未来の決済を前提に現在の取引がおこなわれる、あるいは決済(プロジェクトの実現や利益の回収)を前提にいまの行動を決めるという産業社会の論理を表わすものであり、また個人の同一性とその正当化の根拠は個人の出自ではなく、彼が将来に何をなし、何を達成するかにかかっていると考える近代市民社会の論理をも表わしている。
こういう前のめりの姿勢が、知的もしくは物的生産性の累進的増大をめざす近代社会を貫いている。ついでに言っておけば、こういう「プロ」の意識は、「勤勉」のエートスと深いつながりがある。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、「時は金なり」というベンジャミン・フランクリンの言葉のなかに「自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想」を読みとったが、そのフランクリンよりもさらに一世紀前、ジョン・ロックは『市民政府論』のなかで、神によって与えられたこの身体の作業をつうじて新しい価値と富とを創造すべく命じられているという要請について述べていた。つまり、「怠惰で無分別」(lazy and inconsiderate)であるのではなく「合理的で勤勉」(rational and industrious)であれという要請が、「勤労」(industry)の精神、ヴェーバーが指摘したあの資本主義のエートスとしての「勤労」の精神へと、転位したというのである。合理性と勤勉はこうして能率性と累進制へと収斂してゆく。そしてその「勤労度の差」(diffetent degrees of industry)」によって各人の財の不釣りあいも生じてくるのであるから、結果として所有量の不平等も是認されることになる。そしてそういう個人的所有を、維持・保存するのではなく、むしろみずから無制限に増大させる権利を獲得し、たがいに保全しあうためにこそ社会は存在すべきであると、ロックは考えたのだった。(pp.64-66)*3
老いの空白 (岩波現代文庫)

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完訳 統治二論 (岩波文庫)

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