アーミッシュ、クェイカー、そこから宗教改革へ

承前*1

ペンシルヴァニア州アーミッシュ学校銃撃事件を巡って、http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/10/post_9efe.htmlに、


日本人にとってアーミッシュというのはどう見えるのだろうか。変な宗教というかカルトっぽく見えるのだろうか。普通の米国人にとってはどうなのだろうか。そんなことが気になった。私の印象に過ぎないが、普通の米国人にとってアーミッシュはいわば心のふるさとというか、自分では実践できないが信仰の原点のように感じているのではないだろうか。
とあり。どうなんでしょうか。多分、広くて人口も多い米国では、日常的には殆ど意識されない存在なのではないでしょうか。このエントリーでは、「アーミッシュ・コミュニティの拡大・人口増加は今世紀に入ってからということ」が注目されている。私も前日にマークしたCBSの解説記事*2を読んで、アーミッシュが米国のかなりの州に拡散していることを知った次第である。
さて、http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/10/post_9efe.htmlでは、「シェイカー」も言及されて、

アーミッシュなどメノー派やシェイカーなどクエーカーの派生については、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)ではプロテスタンティズムの倫理の主流としては扱われていないわりに、諸派(デノミネーションズ)としてクエーカーについて多く言及があり、註などにはメノー派への言及もある。ヴェーバーのプロ倫は資本主義の精神の成立への興味深い理論にはなっているが、ヴェーバー自身には同時発生した諸派エートスに対して微妙な思いがあったようだ。
と述べられている。
クェイカー(普連土派)に関してのアーカイヴはhttp://www.qis.net/~daruma/。また、一般的な情報については、http://www.quakerinfo.com/index.shtmlが詳しいのではないだろうか。その中に、クェイカーの起源についてのBill Samuel氏の短いテクストもある*3。そういえば、クェイカーの宗祖ジョージ・フォックスについては、コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』で注目していた筈。同書が手許にないので、二次的なテクストではあるが、

本書はオカルティズムを扱った著作ではないが、彼のオカルト思想形成を考える上で見落とすことができない。この時期にウィルソンは極めて限定的であるが、オカルト思想の中にアウトサイダー問題の解決策が隠されているという見通しを持っていた。第8章「幻視者としてのアウトサイダー」では、ジョージ・フォックスとウィリアム・ブレイクの二人を取り上げ、結論部分では、G・I・グルジェフのワークを紹介して意識の覚醒状態を制御する可能性を論じている。だが、注意してみると、オカルティズムに対して否定的な見解を述べている箇所もある。例えば、「ある種の『アウトサイダー』にとって、死の問題だけが真の問題である。……心霊の存在を信じたり、死後の世界や再生を信じても、それは解答にはなりえない」(p. 141)と叙述されている。ウィルソンがここで検討しているのはあくまでも実存的問題であって、オカルティズムへの関心は二次的なものに過ぎない。したがって、本書でオカルティズムの問題を読み込むことにはかなり無理がある。あくまでもここから読み取れるのは、ウィルソンのオカルティズムへの関心の推移なのである。
 この時期のウィルソンは、オカルティズムよりもむしろキリスト教神秘主義に注目していた。『宗教と反抗人』(『宗教とアウトサイダー』)では、この関心を拡大させて、ヤコブベーメ、ニコラス・フェラ、パスカル、スウェンデンボルイ、ウィリアム・ロー、ジョン・ヘンリー・ニューマン、キルケゴールなどキリスト教思想、神秘思想に多くの紙面を当てている。
http://www.geocities.jp/colin_webson/occult/occult.html
をメモ代わりに引用しておく。また、昔奥田道大先生から、ボストンとフィラデルフィアをピューリタニズムとクェイカーという宗教的背景から比較した書物があることを教えていただいたことがあるが、詳細については記憶に留めず*4。シェイカー(宗祖はあの台湾の映画作家と同名だ!)についての基礎的な情報はhttp://religiousmovements.lib.virginia.edu/nrms/Shakers.htmlが詳しいかと。
たしかに、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

はマクロというか大雑把なレヴェルにおいては正しいにしても、それを歴史それも宗教史の本として読むのはきついところがある。勿論、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義」云々に関しては、長部日出雄
二十世紀を見抜いた男―マックス・ヴェーバー物語 (新潮文庫)

二十世紀を見抜いた男―マックス・ヴェーバー物語 (新潮文庫)

が指摘するように、ウェーバー自身の家族的な背景を考慮しなければいけないということはあるにしても、誰でもこれを一読して感じることは、ウェーバーがルターとカルヴァンの差異については敏感でありながら、その他のプロテスタント諸派間の差異については全く鈍感だということだろう。また、〈予定説〉の説明能力にも限界がある*5。例えば、メソディズムはプロテスタントの重要な潮流であるが、〈予定説〉は採っていない。にも拘わらず、繰り返すことになるが、マクロなレヴェルにおいてウェーバー宗教改革に関する説明は正しいといえるだろう。産業=勤勉社会としての近代社会の起源と本質を理解するためのモデルという限りにおいて。ただ、この意味では、ウェーバーをベースにしたピーター・バーガー先生
The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion

The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion

の洗練された記述の方がより重要であるとはいえるが。
しかし、「マクロなレヴェル」で正しいとしても、ディテイルは常にまた必然的に零れ落ちてしまう。その零れ落ちた部分こそ、近代の別様の可能性を考える上で重要なのかも知れない。その意味では、私自身、ウェーバー(特に大塚久雄的ヴァージョンのそれ)からは自由になる必要がある。或いは、さらにマクロというか包括的な視点が必要なのかも知れない。英国国教会の神学にも大きな影響を与えたエラスムスのようなカトリック系のユマニストやマイスター・エックハルトのような独逸神秘主義の潮流をも視点に組み込んだ宗教改革史の記述というのはないのだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061007/1160244004

*2:http://www.cbsnews.com/stories/2006/10/03/earlyshow/printable2057446.shtml

*3:http://www.quakerinfo.com/quakhist.shtml

*4:検索したら、

Puritan Boston & Quaker Philadelphia

Puritan Boston & Quaker Philadelphia

という本でした。

*5:但し、〈予定説〉はプロテスタントを超えて、一部のカトリックと資本主義との関係についても有効であろう。例えばジャンセニズム。Cf. http://mb-soft.com/believe//txc/jansenis.htm http://www.tiscali.co.uk/reference/encyclopaedia/hutchinson/m0008876.html http://www.litencyc.com/php/stopics.php?rec=true&UID=588