「合理化」「文化」「無意味」(メモ)

大野道夫『つぶやく現代の短歌史 1985-2021』*1の終章「「口語化」の諸局面とジェンダー、システム化、合理化の問題」。


(前略)M・ヴェーバーは合理化(rationalization)を考察したが、合理化とは「対象のあり方を一定の基準によって整理し再構成すること」と定義される。「経済学ではそれによる効率化が肯定的に評価されることが多いが、社会学では費用や効果を測る基準がさらに問題化され、その恣意性が議論される」。そしてヴェーバーは「脱魔術化」などの概念をもちいつつ、法、経済、学(科学)、宗教、音楽らの芸術などの合理化と、その相互の葛藤を分析している(「合理化」『現代社会学事典』)。(p.316)
「合理化」と「意味喪失(Sinnlosigkeit)」について;

ヴェーバーは文化について、次のように語っている。
「農民」や「封建社会の領主や戦士たち」は「『生きることに飽満*2して』死ぬことができた」。それに対して近代の「『教養』人のばあいには」「『生きることに倦怠*3する』ことはありうるが、一循環が完結したという意味で『生きることに飽満する』ことはありえない」。「死という『偶然的な』時点で――その個人にとって――意味ある結末に到達しているかどうか、それには何の保証もないのである」。
そしてこのような「死の無意味化こそが、ほかならぬ『文化』という諸条件のもとにおいて、生の無意味化を決定的に前面に押し出したのだということになる」。「『文化』なろものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出していくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく」(「現世拒否の諸段階」「三 世界宗教の経済倫理 中間考察 宗教的現世拒否の段階と方向に関する理論」『宗教社会学論選』一九七二、一五六―六〇頁、原著は一九二〇~二一年。なお引用に際し、少し文章の順を変えている)。
このようにヴェーバーは、人間が合理化の過程で「生きることに飽満」できた自然的生活の有機体的循環から抜け出てしまったことにより、意味ある結末が不明となって死の無意味化が生じ、生の無意味化が進行した、と論じている。つまり死が恐いのではなく、無意味に死ぬのが恐いのではないか、という問いが生まれるのである。(pp.317-318)
ウェーバーってかなりの浪漫主義者だったんだ! まあ、中世社会或いは「封建社会」の人々が「自然的生活」を送っていたとは言えない。その時代の人たちは、その時代特有の仕方で、つまり近代社会とは別の仕方で「自然的生活の有機体的循環から」「抜け出した」世界を生きていたわけだ。
今引用したパッセージの直前で、(ウェーバーとは関係なく)大野氏は「文化」について語っている。こちらの方は、社会学者が普通に謂うところの、シンボルのシステムとしての「文化」であろう。

文化は社会の中で重要な領域になってきており、一九八五年から二〇二一年の就業者の産業別構成の推移をみると、第一次産業第二次産業は減少しているが、第三次産業は五六・八%から七三・0%へ増加している(日本統計協会『統計でみる日本 2023』)。第三次産業は直接文化に関わらなおい産業も含まれているが、たとえばユーチューバーなどは、第一次産業のように自然から一次的に米や魚を取ってくるのではなく、第二次産業のように車などのモノを製造するわけでもなく、映像と音によって利潤を得ているので、広義のサービス産業として第三次産業と言える。またアニメ、音楽、出版など特に「創造」に関わるものを「クリエイティブ産業」と呼ぶ場合がある(『現代社会学事典』)。
また文化が重要性を増すにつれ、文化(意識)に関わる問題として、差別、偏見、ハラスメントなどを含むハラスメントなどを含む性、年齢、民族性などの属性に関わるアイデンティティ意識が「社会問題化」してきている。(p.315)