沙漠の宗教?

承前*1

冷泉彰彦*2「革命が脱宗教だった欧州のプロセスはどうして普遍的にならないのか?」http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/01/post-250.php


埃及での事態を巡って、


 一方で、現在のエジプトに関しては、勿論本稿の時点ではムバラク政権の行く末は全く予想もできないのですが、基本的には「ムバラク=富裕層の利害=世俗主義」というイメージがあり、これに対して「反政府運動貧困層の利害=アイデンティティとしてのイスラム回帰」という構図があるようです。アメリカではそのエジプトの最大野党である「ムスリム同胞団(英語ではムスリムブラザーフッド)」のことを、まるで過激なテロリスト集団のように思っている人も多いようですが、政権奪取の構想は基本的に非暴力だという理解で良いようです。ただ、イスラム法に基づく政治を主張しているという意味では原理主義のカテゴリに属するのは間違いありません。
という。また、

恐らく2点指摘できると思います。1つは、例えばエジプトやパキスタンなどの世論の場合、「脱宗教の世俗的な民主主義」というものが欧米で実現しているとして、その「世俗的な民主主義」は自分たちには敵対しているということがあると思います。欧米は自分たちの利害代表としては「途上国型独裁政権」を後押しし、その政権は決して民主的ではないばかりか貧富の格差を拡大するような政策を採って来るわけで、民衆としてはそうした「欧米の利害を代表する世俗政権」には全くシンパシーを感じないということになります。そうした政治と宗教の力学の結果として、自分たちの誇りを守るのは原理主義だということになるわけです。

 もう1つは、イスラムの禁欲性や厳格な秩序志向といったカルチャーの問題です。元来は「仲間割れは全員の死を意味する」ような砂漠の厳しい自然の下で、全員の生存のための「知恵」として編み出されたものだと思われますが、社会や技術の進歩によって「全員の死」というものが遠のいた現代のイスラム大都市においても説得力を持っているのは何故なのでしょうか? それは、格差の激しい社会においては、貧困層が現実に耐えながら生き延びてゆくための知恵として、禁欲性や秩序志向というものが、砂漠同様に機能してしまう、つまり人々のある種の精神的な支柱となり得てしまうということがあると思います。ある種の必然ではあるのかもしれませんが、決して幸福なストーリーゆえではないと思われます。

先ずイスラーム圏において、世俗的ナショナリズムというのは、土耳古ムスタファ・ケマル・アタテュルクに始まって、埃及のナセル、イランのパフラヴィー王朝、イラクのサダム・フセインに至るまで、宗教的原理主義よりも数倍暴虐であることが経験的に証明されてしまっているということがあると思う。これについては、Karen ArmstrongのThe Battle for God: A History of Fundamentalisms*3を(度々で恐縮だが)マークしておく。東欧や旧蘇聯の人々に対して社会主義だって捨てたものじゃないよと言っても馬鹿も休み休み言え! と返されるだろうというのと同じ。ところで、イスラーム社会における政治的近代化については、アフガニスタンの歴史を再度総括しておくべきだと思うのだ。アフガニスタン人自身も含めて多くの人は内戦以降のアフガニスタンしか知らないわけだが、かつてのアフガニスタンは王政時代、社会主義時代を通じて、イスラーム社会近代化の成功例のひとつであったわけだ*4。なのに、どうしてああなってしまったのか。
The Battle for God: A History of Fundamentalism (Ballantine Reader's Circle)

The Battle for God: A History of Fundamentalism (Ballantine Reader's Circle)

問題は後半部にある。イスラーム=沙漠の宗教というかなり時代がかったステレオタイプ。そもそもムハマンドは商人だったわけだし。また、ムハマンドは沙漠の遊牧民に対する不信感をいたるところで表明している。これについては、井筒俊彦先生の『マホメット』、『イスラーム生誕』、『イスラーム文化』を取り敢えずはマークしておく。また何よりも、現在世界最大のイスラーム国家は沙漠とはほど遠いインドネシアなのだ。また、遊牧民文化についても誤解があるようだ。一般論として言えば、遊牧民社会では親族の自律性が高く、それよりも大きな社会単位の構成が困難だということがある(See 王明珂『游牧者的抉択』*5、p.52、56)。「 仲間割れは全員の死を意味する」どころか、「仲間割れ」というのは遊牧民社会においては寧ろ常態であるといっていい。だからこそ、遊牧民が国家のような大きな社会単位を構成するためには、例えば成吉思汗のようなカリスマ的英雄の登場が要請される。因みに、遊牧民社会では一般的に定住農耕民社会よりも性差別が少ない(『游牧者的抉択』、pp.31-32)。そもそもイスラームは基督教以上に神に対する自己責任を強調する個人主義的な宗教だが、イスラーム圏の世俗的ナショナリズムが西側のナショナリズムを模倣した帰結だったように、現代のイスラーム主義(原理主義)というのは(Karen Armstrongも強調しているように)列強から押し付けられたかたちの〈近代〉を自前のものとして再構築する試みでもあり、そこで見出された、或いは再構成されたイスラームというのは当然以前とは違う〈近代〉的なものなのだ。イスラーム主義というのはイスラームを近代的宗教としての〈プロテスタント〉化*6するプロジェクトでもあるのだ(Cf. 大塚和夫『イスラーム主義とは何か』)。原理主義の信憑性構造としては、遊牧民にせよ定住民にせよイスラーム圏におけるコミュニティの変容、また移民や難民の増大によるグローバルなイスラーム圏の成立とそこでの被差別体験等々を検討しなければいけないのだが、今その余裕なし。また、原理主義ということでは、西側(特に米国)も似たようなものだよ。Karen Armstrongも述べているが、米国独立革命の時も、フランクリンやジェファーソンのようなエリートが自由主義だの共和主義だのを云々するよりも牧師が悪魔の手先英国を倒せ! と説教する方が一般民衆にははるかに説得力があった。エリート層における世俗的自由主義や共和主義と庶民層における福音主義の分裂というのは勿論現在でも米国社会に尾を引いている。
マホメット (講談社学術文庫)

マホメット (講談社学術文庫)

イスラーム生誕 (中公文庫)

イスラーム生誕 (中公文庫)

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

イスラーム主義とは何か (岩波新書 新赤版 (885))

イスラーム主義とは何か (岩波新書 新赤版 (885))

ところで、


Paul Krugman*7 “Marcos, Suharto, Mubarak” http://krugman.blogs.nytimes.com/2011/02/02/marcos-suharto-mubarak/


今回の埃及の事態の経済学的教訓。フィリピンのマルコス政権崩壊(1986年)はラテン・アメリカの債務危機の余波を受けてのもの。また、インドネシアスハルト *8政権崩壊は亜細亜金融危機の余波を受けてのもの。しかし、最近の埃及経済は「まずまずの成長(decent growth)」を示していた。問題は(新自由主義者が大好きな)trickling downがなかったということ。マクロには成長しているのに失業率は下がらない。これだと怒るのは当然といえば当然。だから「GDPが全てじゃないよ(GDP isn’t the whole story)」というのが教訓というシンプルで明快な論。