いろは?

『毎日』の記事;


山形大:「文章のいろは」必修科目に

 「やばい」「微妙に」といった話し言葉を文章でも使う学生が目立つことから、山形大は「話し言葉を書かない」など新入生が大学で学ぶうえでのいろはを教える「スタートアップセミナー」を4月から新入生の必修科目とする。専用テキストを作った立松潔教授(経済学)は「文章能力の衰えを感じる。必修にしないと、基礎的なことができない学生が受講しない」と話している。

 立松教授によると、山形大では最近5〜6年で、答案やリポートに話し言葉を使ってしまう学生が目立つようになった。立松教授は「早急に学生のレベルを底上げする必要を感じた。できる学生とそうでない学生に開きがある」と危機感を抱いている。

 セミナーは週1回90分にわたって「主語と述語、修飾語と被修飾語は近づける」「話し言葉を持ち込まない」など初歩的な作文方法などを解説。リポートやディベート、情報収集の方法についても図で説明する。今までも似た講座はあったが選択科目だったため、興味のない学生は受講しなかったという。

 専用テキストのタイトルは、米沢藩第九代藩主上杉鷹山の名言を借りて「なせば成る!」。840円で新入生全員に購入してもらう。「作文力を高めよう!」「文の書き方の原則」「授業ノートのとり方」など26項目を説明。「文の長さは30〜40字くらいを目安とする」などと記している。文部科学省大学振興課の担当者は「大学生に対し、これほど基礎的なことをテキストまで作って教える例は聞いたことがない」と話している。【細田元彰】
http://mainichi.jp/life/edu/news/20100208k0000e040035000c.html

このテキストを読んでいないので何ともいえないのだが、「話し言葉を文章でも使う学生が目立つ」という意味がわからなかった。例としてあげられている「やばい」だが、文章の中では〈危ない〉とか〈危険な〉にしろということ? それとも、wonderfulとかawesomeに対応する意味で「やばい」を使うなってこと? 勿論、ビジネス文書のような事務的なエクリチュールに、〈ですよね〉とか〈だよね〉、或いは〈じゃない〉といった「話し言葉」風が混じっていれば、俺だって「やばい」と感じ、〈じゃない〉を〈ではない〉に訂正するよう指示するということはする。「使うなって」と書いたが、そういう種類のエクリチュールなら、〈使うなという〉と書く。
しかし、それはあくまでも原則。雅語と俗語、固い表現とやわらかい表現をミクスチャーするというのはレトリックとしてありうる。ただ、それは効果的に、またスタイリッシュに行う必要があるわけだ。寧ろそうしたスタイリッシュな崩し方というスキルをこそ大学で身につけされるべきなのではないかとも思う。「文の長さは30〜40字くらいを目安とする」か。蓮實重彦には1ブック・1センテンスという偉業があるのだけど。センテンスの長さというのは、勿論個人の癖というのもあるのだろうけど、レトリックということでいえば、つまりセンテンスの長短を意識的に考える場合、それはリズム或いは速度感に関係しているだろう。長いセンテンスの場合は緩やかなリズムが醸し出されるだろうし、短いセンテンスの場合は寧ろタイトでせかせかしたリズムが醸し出されるだろう。また、短い節が続く長いセンテンスの場合には、読者をあちこち引き摺り回して、くらくら眩暈をさせるという効果を生み出すかも知れない。文章術を改めて学ぶということは普段自明に行っている〈書く〉ということを、「話し言葉」を混ぜるかどうかということにしてもセンテンスの長さにしても、スタイルとして意識化・対象化してみるということだろう。だから、しゃっちょこばって、頭ごなしに「話し言葉を持ち込まない」なんて言っちゃいけねぇんじゃねぇかと思うのだ(こういうことを書くと、立松先生に「話し言葉を持ち込まない」! って叱られちまう)。
ところで、大学生の文章術ということで真っ先に教えるべきことは、「論文或いは評論の基本である、他者の言説を引用し、それに対してコメントを付すという作法」、「文献引用の仕方や註の打ち方」*1だろう。


http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2010/02/1-2-ac29.html


これは上と違って高尚な話。
先ずこのblogを書いている方の高校時代のことを読んで、俺の無教養ぶりを思い知ってしまった。この方は略同世代の方なのだ。曰く、


というわけで、高校時代、倫社の授業が進むと、その授業で扱う岩波文庫の青や白の本、『ニコ倫』や『プロ倫』、『国家』や『ソクラテスの弁明』などは札幌市のJRから南部の大きな本屋からしばらく消えた。もともと仕入れの数が少ない上に、うちの高校の2年生が買いに走るからだった。講義で扱う予定の書籍が本屋から消える経験は、その後、京大文学部の上田閑照先生の「宗教学概論」を取ってる時に再びあった。オンライン本屋のない時代には、そうした「目端が利くか利かないか」が、生き残る連中の絶対条件だった。いまはアマゾンですぐ入手できるから、こうした「書籍の実物を入手しているか否かで決まる情報格差」は生まれにくい。
高校2年の前期(高校は前期後期制だった)中間試験の課題図書は『ソクラテスの弁明』だった。だいたい『ソクラテスの弁明』を読むと、『ソクラテスの思い出』に行き、あとはプラトンに何冊か手を伸ばす。『饗宴』辺りは読むだろう。で、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』に進むわけなんだけど、これは難しかった。高校の頃、2回くらい読んだように思うけど、その頃はちっとも理解できなかった。前期は、フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』を読んで、デカルトの『方法序説』くらいで終わったんだっけか。その前に、マルクス・アウレリウス『自省録』を読んだ記憶があるので、確か、夏休みの課題図書だったんだっけな。冬の課題図書は何だっけな。こっちは思い出せない。

ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』は、英訳を一、二章読まされて、それが後期の中間試験に出た。たしか「山上の木」と「市場の蠅」を読まされたような気がする。それとカントの『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三冊セット。後期の期末はマルクス『経済学批判』が試験範囲だったような記憶がある。あとはウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が最後の方。合間にヘーゲルが挟まっている筈なんだが、ヘーゲルを自分が読まなかったので、覚えてないな。あと、最後の最後が実存主義で、サルトルを読んだ。高校生向けというか一番お手軽な『実存主義とは何か』で、これは同級生の池田官司くんに貸して上げたんじゃなかったっけ。池田くんはその後精神科医になった。
こんな風に読書記録を書くと、なんだか特別なように見えるけど、同級生の半分くらいが同じような読書経験をしていると思う。ルソーやヘーゲルプラグマティズムの各書など、わたしがパスした本を読んでいる、もっと熱心な連中もいた。学年の半分は同じ先生に習っているから、毎年恐らく150人近くが同じような読書経験をして、高校3年生を迎えるというカリキュラムが、母校では20年近くかそれ以上続いていたのではないかと思う。

所謂進学校じゃなかったしな。1960年代の進学校の生徒の読書生活というと、四方田犬彦氏の『ハイスクール1968』。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060605/1149478230で言及した坂元ひろ子さんのエッセイ「批判する魂のリレー、あるいは伴走」。なお、このエントリーには、私の高校時代の貧弱な教養についての言及あり。
ハイスクール1968 (新潮文庫)

ハイスクール1968 (新潮文庫)

上の『天漢日乗』の主題は紐育のコロンビア大学の「コア・カリキュラム」の中の"Contemporary Civilization in the West"と"Literature Humanities"のこと*2。コロンビアに限らず、米国の大学では、例えばHumanities and Literatureという名で、西洋の思想・文学のエッセンスを学部の初期に叩き込む講義というのはかなり一般的なのではないかと思う。また、遅くとも1970年代後半以降は政治的な闘争の前線ともなっている。つまり、これはcanonということに関わっている*3。思想史や文学史を教えるわけだが、そうすると、どうしても歴史からの女性の排除、黒人の排除が問題になる。また、canonに含まれた作品がレイシズムや性差別に塗れているのではないかという批判も出てくる。Hillis Millerがコンラッドの『闇の奥』について、

Should we read Heart of Darkness? May we read it? Must we read it? Or, on the contrary, ought we not to read it or allow our students and the public in general to read it? Should every copy be taken from all the shelves and burned? (”Joseph Conrad: Should We Read Heart of Darkness?”*4, Chapter 5 of Others, p.104)
という問いを掲げているのも、多分それと関係があるだろう。勿論、それに対する保守派の反撃もある。
Others

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闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

代表作や代表的人物がリスト・アップされ、それが例えば文学史という仕方で系譜づけられることによって、canonは存立する。それが(例えば)大学で教えられることによって、canonはオーソドクシーとして権威化されることにもなる。オーソドクシーに関しては、オーソドクシーがオーソドクシーとしてそれなりに確固としてなければ、それに反抗するアヴァンギャルドも育ちにくいだろうということがある。ただ、オーソドクシーがあまりに硬直していれば、それに対する反抗も、それと同様に(或いはそれ以上に)硬直したものになるのだろうけど。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196654410

*2:詳しくは、http://d.hatena.ne.jp/adawho/20100205 http://d.hatena.ne.jp/adawho/20100206 http://d.hatena.ne.jp/adawho/20100211

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100203/1265213985 また、Cynthia Freeland Art Theory: A Very Short Introduction, Chapter 5、p.89ff.を参照されたい。

Art Theory: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

Art Theory: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091229/1262114055