ポストモダン!

増田曰く、


日本人の精神性、貧しくなりすぎてない?


最近の「上級国民」「親ガチャ」って言葉の流行を見てるとそう思う

20年前から勝ち組、負け組って言葉がよく言われていたけど、そのころは「負け組にならないよう頑張ろう!」って前向きさがあったぞ。

それが今や「生まれたときからいい思いをしているやつがいる。自分はハズレ」って、そこまで自分の人生を卑屈に捉えるの?ってぐらい後ろ向きになっている。

挙句の果てには反出生主義だよ。ちょっとは「生きててよかった」と自分で思えるぐらいの行動をしろっての。

「生まれた時点で100点じゃないから生きる意味ない!」って幼稚すぎないか。
https://anond.hatelabo.jp/20210915131056

要するに、ポストモダンだということだ。タルコット・パーソンズ謂うところのパターン変数に「属性(ascription)」VS. 「達成(achievement)」というのがあるけれど*1、近代社会は「達成(achievement)」という指向性を中心に回っていた時代。「達成」の信憑性=もっともらしさ(plausibility)が怪しくなれば、抑圧されていた筈の「属性」への指向が再び競り上がってくるのは必定。「達成」への信頼性の低下は各種の調査によれば、既に1980年代から表面化しているという。また、(詳しくは論じないけれど)「属性」の復権は必ずしもネガティヴなこととは限らない。
ところで、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*2で取り上げられているカルヴィニズムにおける「予定説」は、乱暴にいうと、一方において神は救済すべき人間と地獄に突き落とす人間を最初から決めているが、人間の側は神のプラン、すなわち自分は救済されるのか、それとも地獄に落ちるのかを知ることはできないということだろう。ウェーバーによれば、この不可知性故の深刻な不安こそがピューリタンたちを勤労へと駆り立てたということになる。「親ガチャ」論は「予定説」の前半に似てはいるけれど、ピューリタンにいわせれば、愚かで罪深い人間が「親ガチャ」の帰結について知ることは不可能であり、そんなことを考える暇があるのなら、せっせと勤労しろよ、ということになる。「反出生主義」の問題も同様。「生きててよかった」がわかるのは神のみ。さて、ヒンドゥーや仏教などの印度系の思想では、そもそも現世というのはよき来世のための修行の場と捉えれていた筈。そういう世界観の信憑性が高ければ、現世は駄目だけど来世また頑張ろうという発想も出てくる筈。まあ、日本の仏教は先祖崇拝と妥協して輪廻説を封印してきたということはあるのだけど*3
でも、フィクションにおいて「転生」が流行っているというのはどういうことなのだろうか。