オッカムとルターの間

山内志朗『中世哲学入門』*1から。
「中世後期から末期にかけての唯名論の流れを追究した研究者」。「ルターの宗教改革の源泉として唯名論を捉え、そのオッカムとルターとの間を結びつける系譜の探究に全力を注いだ」(pp.80-81)――ポール・ヴィニョ、ハイコ・オーバーマン、アリスターマクグラス、コートネイ(p.81)。


オーバーマンは神秘主義唯名論の結びつきを見て取ったが、その結びつきを十分に示すことはできなかった。ここに私は決定的な契機が潜んでいると思う。つまり、神秘主義唯名論も、勃興しつつある市民階級がそれを担う思想であり、彼らが自らの哲学的・神学的・政治的・経済的基盤の基礎づけを行うために構築していった思想であるということだ。(後略)(ibid.)
ここで何故か『プロ倫』が言及される;

唯名論市民社会の基礎づけ理論であったのであり、それが内面と外面の調和をもたらすためには、つまり、ウェーバー(一八六四~一九二〇)が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*2で示そうとしたように、営利への行動が営利への欲求に基づいていないという禁欲主義の精神が資本主義を成立させたというパラドックスがを説明することが必要である。近代の人々もまた、営利のための営利が滅びの道であるということ十分に知っていたのだ。唯名論という言葉の表面に騙され、破壊的なものとしてばかりを見出すのは誤っているのだ。(IBID.)

日本語で唯名論を理解するための土台は、渋谷克実と清水哲郎によって築かれた。(中略)唯名論とは普遍の存在論的問題に還元されるものではなく、倫理的に大きな枠組みの再編を求めるものだった。それが宗教改革に結びついていくのである。それが。『命題集註解』第一巻第一七篇を舞台として闘われたのである。つまり、神の絶対的能力の問題がそこで論じられている。その論戦の火ぶたを切ったのがドゥンス・スコトゥスだったのだ。(p.82)
唯名論」に関する山内氏の著作;


唯名論と中世における倫理学の構図」(『倫理学年報』64、2015)
唯名論と中世末期の倫理学の構図」(座小田豊、栗原隆編『生の倫理と世界の論理』東京大学出版会、2015)
「西洋中世における神学の方法と体系化――ロンバルドゥス『命題集』への註解をめぐって」(村上勝三編『越境する哲学』、春風社、2015)


この三本はすべて ロンバルドゥス『命題集註解』第一巻第一七篇についての中世神学者たちの立場の違いを示し、唯名論者と言われる人々がどのような理論を提示したのかを扱った。そこには神の絶対的能力が登場し、この扱い方に唯名論者の特徴が現れるのである。絶対的能力と対比的なものが秩序的能力なのだが、この神の絶対的能力/秩序的能力を踏まえなければ、唯名論を理解できないとも言われる。(ibid.)

この中世後期の唯名論の系譜について説明することは、古くはオーバーマン『中世神学の結実』(一九六三年)に始まり、長い間排除・抑圧唯名論にも光が差すようになった。
(略)邦訳でその流れを読むことができるようになった。オーバーマン『二つの宗教改革――ルターとカルヴァン』(日本ルター学会・日本カルヴァン研究会訳、教文館、二〇一七年)、アリスターマクグラス宗教改革の思想』(高柳俊一訳、教文館、二〇〇〇年)、アリスターマクグラス『ルターの十字架の神学』(鈴木浩訳、教文館、二〇一五年)などがある。特にマクグラスの『ルターの十字架の神学』では、十四世紀の唯名論の思想が倫理学においてどのように語られ、十五世紀末のがブルリエル・ピールに伝わり、ルターにどのように継承されたかを示している。また、日本語で読める重要基礎文献として、金子晴勇『近代自由思想の源流』(創文社、一九八七年)がある。(後略)(p.83)