Fading in/out

山内志朗*1『中世哲学入門』から。
そもそも「中世」とは何時頃のことなのか。


中世哲学とは、八世紀後半から九世紀にかけてのカロリング・ルネサンスと十五世紀末との間に形成された哲学思想体系と捉えるのが普通だろう。始まりと終わりについて異説はいろいろと考えられるだろう。古代末期のアウグスティヌス*2の思想は中世哲学に多大の影響を及ぼした以上、アウグスティヌスなどのラテン教父を含めなければ全翼を捉えたことにはならない。終わりとして考えられるのは、バロック・スコラ哲学の星であるフランシスコ・スプレスだろうが、彼は一六一七年まで生きた以上、十七世紀もまた中世と言えないわけはない。
通常の時代区分では中世の後にルネサンスが来て、十七世紀は近世哲学の時代である。一つの時代が一つの思想特徴で一色に塗りつぶされるわけではない以上、色別に塗り分けられる順序だった時代の進行があるのではなく、中世とルネサンスと近世が併存しても奇妙なことではない。広大な領域に分散する諸地域が文化の進行の歩みを同時にするわけではないのだが、全体的に見れば中世は徐々に十六世紀に影を潜めていったと言うべきだろう。いずれにしても十三世紀に盛期を迎え、その後十五世紀末には衰退していった思想の体系である。(p.14)
また、

(前略)「中世」という名称は、栄光に満ちた古典古代と、栄光の再生としてのルネサンス・近世の間に挟まれた何もない中間の空隙の時代という意味を持っていた。中世という言葉自体が蔑称なのだ。
ローマ帝国が分裂し、東ローマ帝国ビザンツとして残りながら、西方のヨーロッパにおいては、古代において盛んであった文化は衰退し、政治的にも分裂した。フランク王国が成立し、古代の文化の再生が図られるとしても、西方世界では、ギリシア語やラテン語で書かれた古典的テキストも手元にはない状態だった。
古代ギリシアの学問は、アラビアに伝えられ、そちらで継承されていたのである。それがヨーロッパに還流してきたのは十二世紀のことだった。十二世紀に至るまで、文化や思想は修道院の中に細々と継承されるにとどまっていた。十三世紀に入ると、パリやオックスフォードなど、大学が各地に成立し、ギリシアとローマの思想・文化・法律などが再生したが、それも伝統的で保守的なものであったので、近代科学と近代哲学によって乗り越えられるしかなかった、という図式が長らく支配してきた。中世哲学は近世に入って、乗り越えられ忘却されたと語られてきた。(pp.18-19)

中世哲学は未踏の大地(terra incognita)だ。中世という名称が、古代と近世に挟まれた、空虚な時代という意味で名づけられ、そして、その時代は信仰と封建制によって人々が喘ぐ、暗黒の時代であった、というのが長い間のイメージであった。近代が、世界と人間の発見であったとすると、中世は人間が忘却された暗い時代であった、という対比で整理されてきたわけだ。そういった中世史観に対して、様々な変更が加えられ、その対比図式がかなり打ち壊されてはきたのだが、まだまだ中世へのイメージは暗い。(pp.20-21)