「繫辞」というもの

山内志朗『中世哲学入門』*1第3章「存在の問題」から。


(前略)存在というのは肯定か否定か、というかイエスかノーかで答えられるような問題ではない。言葉が平べったいのだ*2ギリシア語のエイナイ(存在)にしてもウーシア(実体、本質)にしても起伏と動きがある。ラテン語のエッセ、エンス、スプスタンチアのそれぞれにも起伏と動きがある。特にラテン語でエクシステンチアが存在論の陣営に加わるとき、その華やかさは際立っているのに、日本語で存在、存在者、現存在、現実存在などと訳すると全部平板同じような姿に見えてしまう。
「存在」概念は、ギリシア語においては「エイナイ」と現れるが、「あるかないか」の謂における「存在」を表すとともに、命題における繫辞*3としての役割を有していたことは、後の哲学のあり方を根本的に規定することとなった。(pp.100-101)
「繫辞」のない言語;

繫辞に相当するものは、古代中国語にもアラビア語にも存在しなかった。(略)アラビア哲学ではアリストテレス哲学の翻訳に苦労し、人工的に繫辞を構成するしかなかった。よって極論すれば、イスラーム哲学にも存在概念はなく、存在論もなかったと言ってよい。もちろん、存在論という言葉そのものが近世に入ってできた言葉であるから驚くべきことでもないのだが(存在論[ontologia]という語は一六〇六年が初出)、「存在」概念や「実体」概念は普遍的なものではない。これもまた世界哲学が学問として可能であるために考えるべき課題なのである。
「存在」をアラビア語に翻訳する場合、とても苦労することになる。アラビア語において、huwaという分離代名詞(「彼」の意味)が繫辞として使用された。したがって、huwaは代名詞でもある以上、「彼は人間である」はhuwa huwa insanと書かれる。これはアラビア語独自の表現だが、インド・ゲルマン語において繫辞と存在動詞が重なっていることの奇妙さを表現していると見ることもできる。アラビア語で存在をめぐる動詞が少なくとも四種類あることは、かえって存在表現の単一性の奇妙さを照射しているようにも思う。
「存在する」という述語を受け入れる基体は事物だけではなく、事態や出来事も含んでいるはずだ。そして事態が成立することとは、事態の否定から肯定へと転じることである。成立・現成は否定と肯定の交替に存在しているが、繫辞は否定と肯定を絶対的に切り離してしまう。事物の成立する相においては否定と肯定がないまぜになっているのが普通だが、ギリシア的知性は二つの相を峻別し、その形式を基本とした。「存在」という概念がインド・ゲルマン的な特性であること、そして存在概念が概念の素性とは独立に世界哲学において中心概念となりうるのかは考え直してよいことである。
存在は端的に「ある」ということと、生成変化とは別の次元に基本形が置かれたという、少なくとも二つの特徴が与えられることとなった。後の哲学は、そういったギリシア的存在を様々に変形し、自分たちの思想にカスタマイズしながら構築していくこととなった。「ある」という概念を言語や思想の中にどのように配置し、全体の枠組みをどう設えるかが問われている。「ある」という概念はそれ自体で空虚であっても、実に多くの概念たちを海のように招き入れる。(pp.101-102)
中国語(漢文)の「是」は「繫辞」であると言えるかも知れないが、「存在動詞」ではない。

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/06/12/094109 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/07/104401

*2:「存在」という日本語について?

*3:「コプラ」というルビ。