異なるものの不可能な綜合

山内志朗『中世哲学入門』*1
「はじめに」。「中世哲学」の取り敢えずの(前提的)定義。「中世哲学」とは「九世紀から十五世紀頃までヨーロッパの教会や大学で講じられた哲学」である(p.12)。


中世から遡り、古代ギリシアの状況において、哲学は学問という知的営み*2の共通の基礎を据えるべく存在していた。哲学は知の土台を築く基礎工事であり、そしてそれを差配する営みなのだ。基礎学としての哲学を整備し、体系性を与えたアリストテレスは、途方もない天才である。時代や地域、言語の違いを超えて理解できる共通の枠組みを設えたのである。様々に批判されることになったが、知の普遍性を準備した功績は圧倒的である。
哲学は普遍的な伝達可能性を問い求めたものである以上、いかに区々たる姿をとろうとも、「世界哲学」という側面を備えている。世界哲学とは、地域も時代も超えて成り立つ知的営為へのオマージュとしての言葉である。そしてさらに重要なことは、その普遍性は個別性の中に基礎を持っていることだ。決して疎漏なるものにとどまるのではない。哲学はいつも必ず、普遍性と個別性を無媒介的に結びつける心意気の中でのみ成立する営みなのである。
古代ギリシア哲学と中世スコラ哲学は、ヘレニズムとヘブライズム、ギリシア多神教キリスト教一神教というように根本的に異なり、哲学への構え方においても徹底的に異なる。融合も総合も絶望的であることを知りながら、両者を結びつけることを厭わなかった。その営為の痕跡が中世哲学だと私は思う。(ibid.)

ギリシアに発する「哲学」という概念の普遍性と、それとは相反するがごとく裏側でr展開されている、魂の救済への志向との間に存在している心理的な距離感を私はいつも感じてきた。だから私はその埋めがたい落差と乖離を少しでも埋めようと、無理だとわかりながら、ついラテン語哲学書を開いてきた。(p.13)

中世スコラ哲学、それが近しく感じられたのは、見捨てられている思想、いや少なくとも私にはそう見える思想だったからだ。煩瑣で難解で無意味で誰からも見捨てられた吹き溜まりの中で放っておかれた哲学なのである。だからこそ、中世哲学は、私にとっての中世哲学であり、そうあり続けてきた。(ibid.)
「中世スコラ哲学」という名称について;

中世スコラ哲学という名称は誤解を招きやすいというのも、中世哲学は、スコラ(教会付属の神学校)で展開されたというよりも、十三世紀に確立した大学で展開された哲学だからだ。スコラ哲学と言っても、実のところは名前に反して「スコラ」との関連は薄いのである。
(略)スコラ哲学は煩瑣で無意味な議論を転換する学問という蔑称の意味を持って語られることが多かった。近世初頭の人文主義者が、伝統的学問体系との対立から、戦略的に破壊的な言辞を行ったためだ。その後の人々は、スコラ哲学のテキストを読みもせず、罵言雑言の方だけ受容して流通させたのである。そして、ラテン語を学ぶことも、初等教育を受ける機会も減り、スコラ哲学を読もうと思っても読める力を失っていったのである。近世初頭には初期印刷本として膨大に刊行されたが、十七世紀以降、中世哲学は衰退していったのである。(p.15)