「入門」しているか?

山内志朗*1『中世哲学入門』って全然「入門」になっていない感じがしていたのだが、最初から100頁前後、で、ようやく「中世哲学」の入国ゲートの行列に並んでいるというくらいの感じはしてきた。


存在を語るための基本的な用語、本質、ロゴス、実体、偶有性などは仕えるようになったが、「わかった」という気にはなれなかった。言葉に出し、語り、文章にして、論じることは少しできるようになった。しかしわからないというのが正直な気持ちだった。
今でも、このわからないという気持ちは残り続けており、それは消えることはない。もしこのわからなさを気持ち悪いと感じるのであれば中世哲学、さらには哲学から出て行った方がよい。この気持ち悪さを気持ち悪いと思いながら、不快さを感じながら考え続けることが哲学だと思う。
わからなさを伝えることも任務として成立すると思う。私もまたわからないまま存在について何本も論文を書き、たくさんの言葉を費やしてきた。しかし書き連ねられた言葉は風の音のような空っぽの響きばかりで、わかったという思いは漂わない。いや、わかるとかわからないとか言うことが、存在ということに立ち向かう場合に重要なことかもわかりはしない。存在をわかろうとすること自体、暴力的ではないかと思ったりする。だから私はハビトゥスを哲学の基体だと感じる。(pp.95-96)
こういうことって、普通〈入門書〉で言う言葉だろうか?
これは第3章「存在の問題」の初めの方だけど、第2章「中世哲学の姿」の最後近く;

(前略)「机が目の前に存在する」という場合の〈存在〉が問題になっているのではなく、〈存在〉という問題に向かう場合の中世人の心の構え、いや、ハビトゥスと言いたいのだが、それを少し見ておきたいのだ。〈存在〉というのは、認識する人間の方が世界というハビトゥスを構成する際、その世界の中に現れるようになる。ハビトゥスという語は「心の習慣」という意味である。バークリは「存在するとは認識されることである(Esse is percipi)」と語ったが、私であれば、「存在するとは世界の中に生じることである(Esse is nasci in mundo)」と言ってみたい気持ちになる。おそらく中世の人も似たように感じていたと思う。(後略)(p.90)