山内志朗『中世哲学入門』*1から。
山内氏は「私が中世哲学において語りたいことは単純なことで、「唯名論」が中世哲学をどのように変容させ、近代哲学へと接続していったのかということである」という(p.55)。
「実在論」と「唯名論」。
(前略)実在論(リアリズム)という言葉そのものが、とても滑りやすくこの上なく間違いやすい概念だ。文学や美術において、リアリズムとは写実主義である。哲学でもリアリズムは多義的である。にもかかわらず、なぜかよさそうな真実らしい思想という風を漂わせる。だが普遍が物質的事実と同じように、事物として存在するということなどあるはずもない。だが、人間が言語を用いた途端、事物の楽園から追放されたのである。では、普遍とはそもそも何なのか。普遍があるとはいかなることなのか。
認識論においてリアリズムとは、真理とは事物をありのままに似認識することだと考える立場である。日常的思考において、真理とは事物をありのままに捉えることだと思う人は多い。しかし「ありのまま」というのは心に甘いが毒となる概念だ。精神を内部、物質を外部として捉えると、精神は内部から出て行くことはできず、内部と外部を比較することはできない。したがって「ありのまま」を確かめることは、原理的に確認不可能である。真理を知性と事物の一致と捉えることはできるはずがない。超えられない境界があることは呪いではなく、道標だ。
リアリズムはギリシアのプラトンのイデア論と結びつけられ、イデアは実在するというイデア実在論、実念論などと呼ばれてきた。「イデア」とは何であるのか。イデアが実在するとしても、そのイデアの実在とは個々の事物の実在と同じなのかどうかで問題が出てくるから、考えると難しい。
そういった事情は中世の実在論でも同じで、「普遍」は実在する、個物に先だって存在するという立場が実在論とされてきたが、普遍とは何なのか、それがわからないと普遍実在論も不可解な概念である。実在論とは普遍が存在する立場と整理してしまうと、違和感を覚える。普遍はリアルであるというのは理解できるが、普遍は存在する、実在するとは言いにくい。普遍はそういう述語を受けつけない。リアルを実在的と訳してしまうと意味が変わってしまう。
実在論という言葉で普遍をプラトンのイデアに近づけ、事物のように捉えてしまうことが多い。しかし普遍とは、アリストテレスの説明を見てもわかるように述語であり、判断の中で現れてくるものだ。(pp.54-55)
「暫定的な説明」;
この本の目的は、実在論と唯名論をめぐる基本的問題の構造を十三世紀から十六世紀の思想史の流れにおいて整理することだが、「実在論とは何か」「唯名論とは何か」という問いから始めたいとは思わない。それはなぜかというと、実在論と唯名論とを対立させて考えてしまう枠組みを避けたいからだ。この対立図式は、実在論と唯名論それぞれに関する誤りよりもっと大きな誤りに結びつくと思う。(p.56)
(前略)実在論は事物の中に真実の起源を限定し、その起源から因果的な過程を介して精神が知識を得る姿に、本来的な認識の形式を限定するものだ。因果的な媒介を重視するのは、リアルであることをレス(事物)との結びつきとして考えているからだ。
唯名論は個体を重視する個体主義の側面を持ち、イギリス経験論に結びつくような経験主義的な側面もある。事物との因果的な媒介性は最終根拠とはならない。事物にしろ概念にせよ。それ自体で独立に存在しているものをリアルと考える傾向があるように思う(後略)(pp.56-57)
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