中世の「志向」

山内志朗『中世哲学入門』*1 から。
「志向(intentio)」を巡って。日常言語や近代以降の哲学を前提にしていると!?ということになる。


(前略)日本語訳としては「志向」「概念」「観念」などが挙げられる。内容においては「概念」と同じであり、知解作用*2のことでもある。十三世紀に、アラビア語のマアナ(ma’na)、マクル(makul)のラテン語訳として導入され、スコラ哲学の不可欠的基本用語としていたるところで使用された。中世スコラ哲学の核心を一語で表せと言われたら、私はintentioを挙げたい。(略)マクルはアラビア語では、精神の構成要素となるもので、「思い、考え」程度の意味であり、マクルは知性の対象である。マアナという、由来においては曖昧な語の方がintentioの起源としてふさわしいと思う。ラテン語になるとintentioという厄介な概念として適用されてしまう。それから生じる一つの問題は、「意図」という意味ですでに用いられていたからだ。(略)アヴィセンナに由来する起源が大事で、子のルーツを忘れてしまうと語は途端に変な方向に逸れていくことは覚えてほしい。(p.67)
「志向」には「第一志向」と「第二志向」*3がある。

・第一志向(intentio prima)――知性認識の対象側面であるが、知性認識された事物は志向(知性認識の作用)ではないものである。外的事物を対象とする知性の認識作用のことだ。
・第二志向(itentio secunda)――知性認識の対象側面であるが、知性認識された事物は志向それ自体であり、認識された知性認識作用そのもののことである。(略)十三世紀後半から十七世紀に至るまで、この第二志向が(略)〈理虚的存在〉であるのか、無に近いものなのか、いや知性の働きはそれ自体で見ればリアルだという議論も出てきて、話は極めて錯綜したものとなる。そして、普遍は第二志向なのである。だから第二志向を追いかければ、倫理学的側面や神学的側面はさらなる密林の中の迷走になってしまうが、そうすることによってしか近づけない領域も広い(後略)(pp.69-70)

「志向」という用語は頻繁に中世哲学では登場する。「概念」として理解して問題ないのだが、「第一志向」と「第二志向」との対比については明確に理解し、十分に注意を払うことが必要だ。(略)事物を知性が認識し、その事物について有する認識作用またはその内容が第一志向である。(略)考えるべきなのは、この第一志向を対象とする志向、つまり第二階の志向作用が第二志向だということである。第二志向は概念の概念、志向の志向であると言ってもよいが、これをどう捉えるかは、普遍の理解にも存在論と論理学の違いにも密接に関係してくる。この第二志向の登場によって生じた哲学的な枠組みの改変が〈認識論的転回〉と言われるものなのである。(pp.70-71)
「 理虚的存在(ens rationis)」についてもノートしておく。

(前略)本書の主役であり、中心である。第二志向と〈理虚的存在〉と対象的との関係がわかれば、普遍論争については基本的に理解したと言える。〈理虚的存在〉とは、知性によって構成されたありかたである。これまた十三世紀の半ばに登場し、命名の根拠が確定されないまま、頻繁に使用され続けた概念である。〈理虚的存在〉は無に近いものと解される場合が多かった。ところが外的事物の存在が捨象されて考えられると、認識対象が存在しない場合、対象側面が捨象されて、認識の作用と内容のみが問題とされて、認識作用そのものを認識対象とする自己反照的(反省的)あり方を指す場合が多くある。つまり、第二志向と〈理虚的存在〉が同じものと考えられる場合も少なくなかった。、〈理虚的存在〉であるがゆえに虚構だということではなく、リアルで実在的な存在だととらえる場合もあり、それがオッカムの立場である。この〈理虚的存在〉は、中世哲学の中心概念である。(後略)(pp.76-77)
山内氏は「この入門書は、極端な言い方をしてしまえば、この〈理虚的存在〉への賛歌と言ってもよい」と言っている(p.77)。