「生まれた瞬間」

鴻巣友季子*1「「村上春樹」が生まれた瞬間」(in 『わたしと「名著」』NHK出版、pp.12-13)


普通ディスクールというのは、何処かに省略してもかまわない余計な部分というのがあるものなのだけど、この見開き2頁の文章にはそういう箇所が全然ない。そういう意味で、筋肉質の文章だと思った。


二十代前半で村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け*2を読んだとき、圧倒的なかっこよさに目眩がした。どんな批評にもびくともしないクールさがそこにはあった。
語り手の「僕」が大学の夏休みに東京から港町に帰郷し、親友「鼠」とすごす十八日間の物語だ。事件が起きるわけではない。主人公の成長物語とも言えない。彼らは「ジェイズ・バー」でビールを飲み、テレビで野球中継を観て、女の子たちのことを回想する。左手の指が四本の女の子と出会う。
断章を重ねて書くスタイルも、アメリカ文学の翻訳物のような文体も新鮮だった。若い日のあてどない解放感と鬱屈、背景には学生運動の名残りがうっすら感じられる(ということは、後年になって理解した)。(p.12)
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あちきたりの日常や笑い種を書いているようで、この小説は怖い。暗澹とする。人と人とのどうしようもない壁を描いているからだ。「僕」がある女性に、「離婚した女の人とこれまで話したことがある?」と訊かれ、「いいえ。でも神経痛の牛には会ったことがある」と答えるくだりは有名で、このやりとりはその後、ラジオのDJの「しゃっくりの止まらなくなったアナウンサーと話したことあるかい?」という問いかけと重なる。ナンセンスさが増せば増すほど、作者の絶望の深さが伝わってきた。のちの『ノルウェイの森』の直子の原型のような女性も登場する。
それから、『夜のくもざる』や「品川猿」などで重要アイテムとなる「猿」も序盤に盛り込まれている。「僕」たちが酔っぱらった朝、フィアット600で公園に突っこむ場面だ。ここなんかは村上文体が生まれた瞬間と言っていいかもしれない。「僕がショックから醒め」に始まり、「猿たちはひどく腹を立てていた」までの長めの一文を見ると、一人称主語で始まり、「猿たち」という三人称主語で終わっており、明らかに翻訳文体の足跡が感じられる。この文体がその後、日本の小説言語まで変えてしまったのだから歴史的書だ。(p.13)