熟成するテクスト(メモ)

翻訳のココロ (ポプラ文庫)

翻訳のココロ (ポプラ文庫)

鴻巣友季子*1『翻訳のココロ』は彼女の代表作であるエミリー・ブロンテ嵐が丘*2翻訳に関するネタが多い。また、鴻巣さんはワイン通でもあって、ワイン関係のネタも多い。
ブルゴーニュの蔵元、アンリ・フレデリック・ロック氏曰く、


ワインが時を経るとよくなるのは、ワインが熟成するからだけじゃない。それとともに人も熟成するからおいしくなるんだ。(後略)(p.120)
それを承けて、鴻巣さん曰く、

(前略)まさに、『嵐が丘』は発表した一八四七年当初、まだあまり「美味しくなく」て世の中に受け入れられなかった。まだ「生」すぎたのかもしれない。それが、人と文学が歴史を重ねるうちに味がこなれ、いろいろな解釈が生まれ、作品と読者がおたがいにじゅうぶん熟して美味しく飲めるようになっていったのだと思う。『嵐が丘』は読み手という樽のなかで最上の熟成を遂げたのだ。そこまでに、数十年という歳月を要した。(略)
これは個々の読者についても言えそうだ。わたしが初めてこの小説を読んだときの感想は、「なに、これ!」だった。正直、どこが美味なのか首をひねった。ところが、なぜか忘れがたいというか、後を引いたわけだ。のちに初めて原書と取り組んだときには、別の衝撃があった。暗い、悲しい、寂しい、というイメージばかり表だって言われているけれど、「この小説、ときどきは笑ってもいいんじゃない?」と思ったのだ。ともかくも、初めて『嵐が丘』の味を美味しいと感じたのだろう。『嵐が丘』も長い歳月を経てだんだんと歩み寄り、ようやく美味しく味わえる地点に辿り着いた。
これからも『嵐が丘』は読み手の変化によって、さまざまに味を変えていくのだろう。最高級の酒は、あと百年でも熟成を続けそうである。(pp.120-121)
Wuthering Heights

Wuthering Heights

また、『嵐が丘』の最後を巡って曰く、

ところで、ヒースクリフ、キャサリンエドガー。「静かな大地に休らう」三人の眠りは、はたして永遠に静かなるものだろうか?
例えばちょっとした映画好きなら、スティーヴン・キングの原作をブライアン・デパルマが監督した「キャリー」*3のラストシーンをちらと思い出すかもしれない。いきなり墓の中から手が……というあの場面だ。知らず知らずのうちにキング・キャリー的な読み方を『嵐が丘』に導入している――いわば、二十世紀のモダンホラーが十九世紀の小説に「影響」をあたえているのだ。面白い図式だなと、ふと思う。
時間的な順序で考えれば、過去の古い作品に影響を受けて現在の新しい作品が生まれるわけだが、「古典は何度でも再生する」というのはこういうことだ。『嵐が丘』は後世の作品をインスパイアすると同時に、新作によって自身が新しくなっていく。新しい作品を豊かにすることで『嵐が丘』自身が豊かさを増してきたのである。(pp.139-140)
キャリー (新潮文庫)

キャリー (新潮文庫)


(前略)『風とともに去りぬ』を読んだ人が、ヴァージニア・ウルフを読んだ人が、あるいは漫画『ガラスの仮面』を読んだ人が、新たに『嵐が丘』と接するとき、そこには十九世紀当時の読者がもちえなかった豊饒が生まれうる。過去と未来がふれあって再生する。
古典個展が時とともにますます新しく豊かになっていくというのは、こういう意味だ。名作はただ古くなるのではない。熟成をかさねていくのである。(140-141)